玉手の水、俊徳丸の道

森田美芽

 2021年12月4日、豊竹呂太夫、鶴澤清介による、「大曲丸一段に挑む」シリーズ、『摂州合邦辻』合邦庵室の段の奏演は、大槻能楽堂で行われた。歴史と現在、伝説と現実が交錯する「辻」に、立ち現れた奇跡のような舞台の至芸に出会えたという喜び。
河内平野と上町台地に展開される世界観の概要を、児玉竜一早稲田大学教授が15分で語ってくださる。その後、舞台も客席も、一つの緊張のうちに始まる。
大槻能楽堂
「しんたる夜(よん)の道」マクラ一枚の力。この語りだけで、彼女を包む暗闇の深さ、彼女が高安館を出奔してからの道のり、そして秘密を抱えた彼女の足取りが見えてくる。いきなりその世界が立ち上がり、時を超えて現前してくるのに、否応なしに引きずり込まれる。最近の呂太夫の義太夫には、そんな力が漲っている。いとも自然に、無理に大声を絞り出すようなこともないのに、知らぬ間に、その世界に引きずり込まれているのだ。登場した玉手の周囲に広がる沈黙。そして、これまで気づかなかった「包み隠せし親里も今は心の頼みにて馴れし故郷の門の口」という言葉が迫ってくる。高安左衛門の後妻に納まってからは親はないもの、と互いに思い合いながら遠ざかってきた実家を訪れる。ここに父と娘の絆がほの見える。これがもう一つの伏流水となっている。
「母様、母様」の声も密やかでありながら、しっかりと通っている。ここでは父ではなく母を呼ぶ。義理を重んじる父は、家に入れてくれないだろう。ひたすら娘を案じる母の「これ幸ひ」は本当に心の声の独り言に聞こえた。そしてあくまで娘をかばおうとする母。「辻でござんす戻りました」と彼女は娘に帰る。母はヤア戻ったとは夢ではないか」と喜ぶ。この「夢」のアクセント一つで母の喜びが伝わる。
しかし合邦はあくまで引き止め「ここへ何しに来うぞい」「高安殿のご厚恩」「もとより娘は斬られて死んだ」と、義理を通すことを優先する。娘を思うのに意地を張っているような、後の長い詞の伏線である。そしてまた、「この世を離れた者なれば世間を憚ることもないかい、そんなら早う呼び込んで、茶漬けでも、」に一瞬の間、そして「手向けてやりゃ、アア可哀や立ち寄るところはなし、幽霊もさぞ、ひだるかろ」の、精一杯の父性の詞が美しく響く。
この父と母の迎えるところで、彼女は娘となる。ひたすら娘を喜ぶ母と、途中で気づいてた止まるように「以前の詞と世の義理を」まで高ぶった思いをとどめ、「思へばちゃっと飛びのいて」でまた義理に立ち戻る。こうした合邦の心の動きが手に取るように感じられる。
そして前の山場、玉手のクドキ。その前に「箸持ってくくめるやうな母の慈悲」の一言、これがまた効いている。それに対し「面映ゆげなる玉手御前」は、頬を赤らめる風情で始まる。このクドキはたっぷりと、したたるような色気。「恋ひ焦れ」まではうっとりと、「思ひ余って打ちつけに」は粒読みで、「なほいやまさる恋の淵」はまたたっぷりと聞かせる。「後を慕うて歩はだし」はまさに高安の館を出てからの彼女の歩み。「親のお慈悲」で高く終わる。
続く合邦の詞の迫力、「青砥左衛門藤綱」 の子としての運命を担う彼は、自分の父の「天下の政道を預り」武士の鑑であったことを誇り、それを娘に求める。「親の譲りの廉直を建て通した合邦が子に」の一言が、彼が娘を断じて許せない意味が迫ってくる。「みなわが業とお身の上を省みて、親への義理に助けさっしゃるほどに」で、彼の感じている妻の夫への義理が伝わる。「ドドドどの頬げたで吐かした」の怒りがくっきりと。
それを宥める母「命の替りに」の後の「尼法師」が低く沈んだので、出家する、女を捨てるということの重みが伝わる。娘に対して「ふっつりと思ひ諦めて、はやう尼になってたも、十九や二十の年輩で器量発明優れた娘」あたりにクレシェンドが、まさにこれほど優れた娘を尼にしなければならないという無念が伝わる。
しかし玉手も懲りない。「アイ嫌でござんす」「今までの屋敷風はもう置いて、これからは色町風随分派手に身を以て」「あっちからも惚れて貰ふ気」と、立て続けの詞に、思わずこれは本気かと思わされる。そんな娘を引き立てていく、その三味線もなんと魅惑的なことか。
後半へはほとんど間を置かず、「入る月の、影さへ、見えぬ目なし鳥」の俊徳丸の境涯に人々の目を集める。「かかるけやけき姿をばお目にかけなば母上の愛着心は(な)切れやもせん」で、あくまでこの世の色恋沙汰や争いから身を遠ざけようとする彼の姿勢が見える。だが義理の母の告白に、「まだまだ罪を重ねよとか」「道も恥をも知り給へ」と強く拒絶する。俊徳丸には、彼岸の救いこそが全てなのだ。それに答える玉手の「この盃肌身離さず抱締めて、いつか鮑の片思ひ」に、別の意味が籠るのを俊徳丸には届かない。浅香姫はもっとストレートに、「ようあのやうにしやったなう」とほとんど断末魔の叫び。だが、「玉手はすっくと立ち上がり」からの、人形が入ればそちらに注目が集まるところが、「恋の一念通さで置かうか邪魔しやったら蹴殺す」が、怒りというよりうっとりと自分に酔いしれているように、そして「怒る目元は薄紅梅、逆立つ髪は」のくだりは、太夫三味線ともに勢いがぶつかり合う。そこへ「駆け出る合邦」「ぐっと差込む氷の切っ先」がまさに空気を両断し転換させる。
「心からとは云ひながら、ヲヲ術なかろ苦しかろ」でまず第一に拍手が来た。そして合邦の詞で、「浮世の義理とは云ひながら、これが坊主のあらうことかい」で第二の拍手。これらは自然発生的に起こった。誰かが拍手をするのを、誰もが待っていたように。
息も絶え絶えに、苦し気に応答する玉手も、「道理でござんす」が強い。そして彼女の通した義理の意味が語られる。「殺させては道立たず」「さぞや我が夫(つま)通俊さま…おさげしみを受けるのが、黄泉の障りになるわいの」がはっきりと届く。そして2つ目の返答で、「次郎丸様も俊徳様も、私がためには同じ継子」「悪人なれど殺させては先立たしゃんした母御前が草葉の蔭でもさぞやお嘆き」と、義理を尽くした彼女の本心が明かされる時、それが二重三重の義理に絡めとられていることを納得させる。夫高安左衛門にも、亡くなった先妻、彼女の主君に対しても、彼女は義理を尽くさねばならない立場だということ。「あなたこなたと思ひ遣り、継子二人の命をば、わが身一つに引受けて、不義者と云はれ悪人になって身を果たすが、継子大切、夫の御恩、せめて報ずる百分一」の重さ。呂太夫は、玉手のかなわぬ恋説には与せず、義理という立場をとる。それを納得させる造形であり、詞の流れである。畳みかけるように3つ目の答え、「寅の年寅の月、寅の日寅の刻に」のリズム、「肝(くわん)の臓の生血を取り、」に、一瞬目がくらみそうになる。「その嬉しさ」はややあっさりと落とす。
合邦の「オイヤイ」の最初は軽く、まるで魂が抜けたようで、そして畳みかける時には強く、一気にクライマックスに高まる。「それで毒酒を進ぜたな」「アイ」で、父と娘の強い絆が再びよみがえってくる。続いて俊徳丸、浅香姫の嘆き、入平の「ご最期(せえご)痛はしや」、そして母が「義理にせまればわれとわが、身を責めはたる無常の寅」はテンポよく。「逢坂増井の名水に龍骨車かけしごとくなり」で最高潮に達し、客席と舞台が一つになる。
最後は娘を囲んでの百萬遍、鐘撞木、「南無阿弥陀仏」の繰り返しにかかる三の糸のぎりぎりのアシライから、俊徳丸の詞、月江寺の由来、父合邦の「東門中心極楽へ、娘を往生なし給へ」と祈る。玉手の犠牲は、むしろあっけなく、舞台に停止しているように思える。
段切れはいつも、カメラを引くように、「仏法最初の天王寺、西門通り一筋に、玉手の水や合邦が辻と」と、個人の運命を超えてその歴史と場に収斂していく。いわば、この世での「逆様事も善知識」という逆説が、この物語全体の主題として、理不尽な恋が忠義であり、親不孝が親との絆を取り戻すという不思議な世界を完結させる。
大槻能楽堂2
この舞台を聞いた人の全てが引き込まれた、素浄瑠璃の世界の豊かさと魅力。まず呂太夫は、全ての人物について、的確にその音程で語り分けるので、劇の全体として、「父と娘の義理の物語」の骨格がぶれない。詞の一つ一つ、もちろん強い部分は強く、うっとりと色っぽいクドキもあるが、案外、あっさりと語る部分がある。ところが全体として聞くと、はっきり残るべき部分が心に残っている。しかもその語りの中で、劇的な起伏、段切れに向けての構成が明確に、普遍的に伝わる。無論、個々の聞き手の側の解釈の相違はあっても、そうしたすべての土台となる劇的世界の構成において、一人一人の人物の人となり、その言動が、全てが必然性をもってつながり、この世界を構成しているのがわかる。ある意味、歴史と伝承と劇作家の趣向と、様々な要素でかなり理性的に理解しにくい物語が、やはり名作であると言わざるを得ない理由が納得できるのである。そして聞く者すべてが、それを自分の感性の中に、共通の何かとして受け止め、共有できたこと。詞の深さ、三味線の間、それらの合わさった、素浄瑠璃でなければ見出せなかったであろう、感性の覚醒が起こっていた。
「合邦」については、必ず玉手が本当に俊徳丸に恋していたかという問いが付きまとう。呂太夫はそれに否と答え、物語の全体を、義理を通す父娘の物語として造形する。だから呂太夫の語る玉手は潔く清らかであり、自分に恥じるところがない。だが、清介の三味線の鋭さ、強さ、そして超絶技巧のうちに、思わず私たちは、深層心理の中では、やはり惹かれるものがあったのでは、と理屈抜きに思える。それは矛盾したことではなく、太夫と三味線は、互いの解釈の違いを正面からぶつけ合い、戦っているのだ。その中に生まれるものは、思いがけない、計算を超えた真実、理性で割り切ることのできない人間の深層であろう。その一つの頂点を、聞かせていただいたと思う。呂太夫の語りの劇的構成力、確かな技術での正確な人物造形を通して、また清介の三味線の感性に直接働きかける怒涛の如き力を通して、人間の不思議さ、割り切れなさをこれほど的確に、また深く描くことができるのかと思う。
歴史的名演といい、至芸といい、それは聞かなければ出会うことはできない。それに出会えたことを心から喜び、その僥倖に出会えた人に、おめでとうと言いたい。奇跡は起こるところに起こり、出会うことのできる者にだけ微笑むのだから。

掲載、カウント2021/12/10より)