愛とゆるし―狂言風オペラ『フィガロの結婚』―

森田美芽

shukushou 狂言風オペラおもて (1)

 「ああ、誰もみな、これで幸せになる。苦悩のこの日を、気まぐれと狂 「ああ、誰もみな、これで幸せになる。苦悩のこの日を、気まぐれと狂気の日を、喜びと幸せのうちに終わらせられるのは、ただ愛だけ」
 このモーツアルトの喜劇の歌詞の「ただ愛だけ(solo amor)」を、浄瑠璃作者の片山剛氏は「愛と赦し(amor e perdono)」に置き換えた。この一言が、この笑いと、高い音楽性と、伝統芸能の底力の集大成の本質を伝えた。2018年3月23日、大阪いずみホールでの狂言風オペラ「フィガロの結婚」の千穐楽である。
 モーツアルトの歌劇を狂言で、それに能と文楽が加わるとどうなるのか、想像もつかなかった。だがその本質は凡庸な人間のドタバタ喜劇であり、狂言や文楽への親和性は高い。すると能は?また音楽を担当するのがルツェルン音楽大教授陣によるクラングアートアンサンブルの管楽八重奏と、鶴沢友之助の太棹三味線とは、和洋の音階や楽風の差をどうするのか。しかもオペラといいながら、基本的に歌わない。アリアやカンツォーナは管楽の演奏で、狂言師のセリフと太夫の語りが物語る。それがどのような語りとなるのか。
時代は平安、江戸、現代が混然としたある春の一日、場所は京の在原平平の屋敷、作中人物はフィガロの両親のくだりを省き、より明快な設定とする。
 舞台は正面奥が八重奏団、その前に床をしつらえ、ちょうど目付柱とワキ柱のように2本の竹がまっすぐに建てられている。舞台の両端は半ば几帳で区切られ、能楽堂の橋掛かりのように使われる。それだけではない。客席側の扉すら演者の出没する空間となる。
 柝が入って口上、馴染んだ序曲の管楽による演奏。そして友之助の三味線で「もう飛ぶまいぞ、この蝶々」の旋律。
 狂言、野村又三郎の太郎(フィガロ)と茂山茂のお花(スザンナ)の掛け合いで、今夜の結婚と殿様の好色ぶりが語られ、そこに殿様である在原平平(人形 桐竹勘十郎)が現れてからむという場面。殿様を語るのは豊竹呂太夫。なんと生き生きとリアルな、それでいて生々しくない語りと人形。そしてあまりに人間臭い。それでいて人間と人形が絡むのも全く不自然さがない。勘十郎の業が冴える。
そもそも狂言自体、男が女役を演じて、歌舞伎の女方とは全く異なる。女らしさというより、女という役柄に徹しているために色気ではなく自然と笑いが起こる。さらに山本善之の蘭丸(ケルビーノ)とその恋人役の茂山あきらのおあき(バルバリーナ)も登場。オペラでは女性が演じる少年ケルビーノの瑞々しさは、滑稽さにとってかわられる。
 第二部は三番叟の三味線での幕開き。友之助の手に拍手が起こる。殿様の和歌のたしなみすらない滑稽さを笑いとするのは狂言ならではの手法。だがそれを何と自然に納得させる呂太夫の語りだろう。愚かさも欲望も隠さない、ある意味最も正直な人間像を描いた。赤松禎友の奥方の舞の美しさと気品。それでいて夫への恨み、やるせない思いを秘めた、能ならではの味わい。さらにお花の小舞は生き生きとしゃれて、能舞と対比しても重々しくなり過ぎず楽しい。
 フィナーレは冒頭で取り上げた「愛と赦し」での大団円。大きな拍手とアンコールで、出演者全員と芸術監督の大槻文蔵師が舞台で挨拶する。アンコールが3度続くほど、拍手は鳴りやまなかった。
 どこがおもしろい、と言っても、それは一言では難しい。原作の持ち味を十分生かしながら、狂言という形で、狂言師の方々の演技とセリフにして何ら不自然なところがないだけでなく、狂言としての笑いにまで昇華されていた。野村又三郎の太郎(フィガロ)の重厚さと単純さ、山本善之の蘭丸(ケルビーノ)の、ある意味殿様のミニチュア版のような好色と軽やかさ、殿様のみならず太郎も蘭丸も男の単純さ、弱さ、愚かしさをそれぞれに持つ。一方、茂山茂のお花(スザンナ)のしっかり者としてのキャラクターや茂山あきらのおあき(バルバリーナ)のコケティッシュな魅力など、本行のオペラの性格をしっかりと踏まえてなおかつ狂言として高い完成度を誇る。能が入ることでセリフの少ない奥方の存在の重さや思いが伝わり、舞台に奥行を与えた。殿様が人形であることで、これが何かのパロディであること、現実離れさせてそこに現実を投影する距離が、笑いを深くした。たとえば掛け合いの中での「忖度」「文書改ざん」「そだねー」など、ライブならではの入れ事があるたびに会場がどっと沸き、拍手が起こる。私たちは古典の中にも今を見ているのだ。
 一方、本当に愛と赦しはあるのか?という思いも残る。なぜ奥方はあんなにあっさりと恨みを捨てるのだろうか。夫はまた性懲りもなく浮気を重ねそうに思える。フィガロもまたそうするかもしれない。そう思えば、確かに毒のある、含みのある終わり方かもしれない。だがそれでも、愛と赦しがなければ、次の一歩は踏み出せない。奥方と殿様はこれからどうなったのだろう、と考えさせられる面もあった。
 また、古典としての力強さも感じずにはおれない。すべての動きが滑らかで、その訓練された身体の持つ動きがもう一つの世界を作り出すのに十二分の働きをしている。この和と洋の音楽と動きの両方を統括して演出された藤田六郎兵衛師の卓越した働きにも敬意を表せざるをえない。音楽監修は木村俊光氏。音楽単体で聞いても納得できる水準の高さであるが、この舞台全体での三味線とのアンサンブルは特筆ものであろう。それを成し遂げられたのは、管楽の水準の高さと鶴沢友之助の秘めたる力にほかならない。そしてこれだけの近くて遠い異世界を持つ人びとを能の品格、狂言の笑い、文楽の自在、管楽のアンサンブルを高い見識で一つの世界に昇華しきった舞台の全体をまとめ上げた芸術監督である大槻文蔵師の手腕に拍手を送りたい。
 古典の可能性は、その身体に秘められた力のなかにある。彼らが修行を通して見につけてきたものが、新しい可能性の場で響き合いつつ、その中に閃光のように生まれる。おそらく多くの方々の支援により計画され、プロフェッショナルの手によって苦闘しつつ実現した奇跡のような舞台に出会えた観客こそ幸いであろう。この舞台に関わったすべての方々に感謝を捧げたい。

カウント数(掲載、カウント18/03/26より)