織りなす春の調べに――平成三十年初春公演

森田美芽

 八世竹本綱太夫五十回忌追善と六世竹本織大夫襲名を寿ぐ、まことに賑わしい新春公演となった。しかしその華やぎの中にもいくつかの、これはどうかと思えることが目についた。この公演の成果と意義を確かめておきたい。

 第一部の幕開きは「花競四季寿」の「万歳」、「鷺娘」。床は睦太夫、津国太夫、咲寿太夫、小住太夫、文字栄太夫、清友、喜一朗、清丈、錦吾、燕二郎。新春を寿ぐ演目の定番だが、残念ながら睦太夫の声が語りに合っていないのか、終始違和感を覚えた。津国太夫は地力を感じさせ、咲寿太夫は安定した前に出る声で気持ちよく通る。
 三味線も清友のリードで風情と清やかさが十分。玉勢の太夫が二枚目の性根があまり感じられない。才蔵の紋臣は当初生真面目さが先だったが、日を追うごとに工夫を加え愛嬌ある才蔵に仕上がった。
 続く「鷺娘」を文昇。丁寧に遣おうとしているが、鷺とも娘とも性根が中途半端に思えた。羽ばたきが不十分に見えたり、独特の浮遊感や寒さの中にも春の光を感じさせてほしいと思う。

 続いて「平家女護島・鬼界が島の段」呂太夫、清介。
 いきなり三味線なしに謡ガカリで始まり、「今生よりの冥途」が通奏低音のように響く。
 呂太夫がこの曲を自分のものとして、そこに俊寛の孤独と落剝、にもかかわらずまだ悟りきった風ではない人間の悲哀を存分に描く。これに比べ、平判官康頼は宗教に救いを求め、少将は千鳥との出会いに生きる希望を見いだす。簑助の千鳥の愛らしさ蜑詞の似合う素朴さと生命力。
 ここでは絶望の中に四人がそれぞれ生きる希望を再び見いだしてのつながりとなる。それが、瀬尾と丹左衛門に別離を命じられた時の4人揃ってと主張する覚悟となる。それゆえにこその千鳥の嘆き、それに心揺さぶられる俊寛の犠牲への決意が、自然と納得させられる語り。よろぼいながらの俊寛が瀬尾に立ち向かう時、思わず応援したくなるような気持ちにさせられる。
 「互いに未来で」は、この世に希望を持たないということだ。「思ひ切っても凡夫心」の痛ましさ、岩場に上る俊寛の悲嘆は、自分が打ち捨てられたことではなく自ら捨てたこの世への未練とも思えた。呂太夫の語りは一人ひとりの性根、一つ一つの場の心理を的確に表し、それらをクライマックスと築き上げる構成力が見事である。清介の的確な支えが要所要所の要となり、この物語の全体を見通させた。
 玉男の俊寛はすでに持ち役と言ってよい。平判官康頼は清五郎、誠実な検非違使かしらをそのままに遣う。丹波少将成経を文司、その若さ、命へと向かう自然さが品よく伝わった。蜑千鳥の簑助、この匂いたつ生命力を秘めた女性像が簑助の真骨頂。瀬尾太郎兼康の玉志、丹左衛門の玉輝は対照的な役の性根を示した。

「八世竹本綱太夫五十回忌追善・六世竹本織大夫襲名披露」

 2人だけの舞台に、八世綱太夫の遺影。口上は咲太夫のみ。このような口上を文楽では見たことがない。追善ということだけならそうだろう。
 だが、咲甫太夫の織太夫襲名とあれば、三業こぞっての口上こそ見たかった。文楽は三業で一体。歌舞伎のように家を前面に出すことにはいささか違和感を覚える。むしろ文楽座全体で喜んで参加できる形は考えられなかっただろうかと思ってしまう。

 さてその襲名披露狂言の「摂州合邦辻・合邦住家の段」は一家一門の晴れ舞台。中、南都太夫、清馗。久しぶりに南都太夫が一人で語るのを聞く。詞で人物の語り分けが不分明なところがあったが、何より合邦の親としての思いを伝えたのは年功と言える。
 前、咲太夫、清治。「面映ゆげなる玉手御前」からの、クドキと三味線に真骨頂を聞く。玉手と父の対立、母の慈悲、自然に流れる思い。まさに三味線を弾くのでなく、情を弾いているのだ。
 奥、織大夫、燕三。42歳の今なればこそ語れる浄瑠璃と感じた。力と勢い、音や節の的確さ。しかしよく映るのは俊徳丸や浅香姫や入平であり、合邦の親としての複雑さや母の無条件の情けではない。その一つ一つの場が積み重なってこの芝居の不条理さと複雑さを、一つのドラマとして主題あるものとする、それは太夫としての生涯の課題であろうが、今回はとにかく性根を違わず大団円に導く力ある語りには圧倒された。また燕三が、太夫の間を制し導き、ドラマの主調低音を作り出し、またその技巧と華やかさで酔わせた。
 勘十郎の玉手御前は前半のクドキの滴るような色気と浅香姫への狼藉までさすがに見せるが、印象に残るのはむしろ戸口に立ってじっと親たちの話を聞き、思い入れをする、そこでの玉手の寂寥感というか、孤独である。おそらくは理解されないであろうその思いを胸に佇む、そんなところにも勘十郎らしさが見える。
 和生の合邦、前半は直情で一本気な侍気質の一方で、娘が無事とわかり、ちょっと疎外感を感じて拗ねているように見えるところに、なんとも言えない愛嬌がある。後半、怒りを溜めて娘に刃を向けるところから、玉手の述懐を聞き嘆くあたりは床の勢いに押されたよう。女房は勘壽、文句なし。前半のようやく会えた娘とのちくはぐなやりとりもうまく見せる。俊徳丸を一輔、品ある姿勢。浅香姫は簑二郎、姫というより恋する女の情熱を感じた。奴入平を玉佳、性根通り嫌味のない造形。

 今回気になったのは、上手の仏壇の装置がいつもと異なり、仏像を大きく描き、その下に位牌を置いていたので、「新しい戒名も貼ってあれど」に矛盾するのではないかと思えた。
 また客席も、大数珠を持ち出すところで笑いが出るなど、こうした死者への対峙と回向という習慣が馴染みをもたなくなり、違和感を覚えているのだろうかと思った。こうした生活感の差を埋めるのは大抵なことではない。織太夫らの世代は、こうした距離感をも引き受けて舞台を務めねばならないのだと思う。

 第2部、「良弁杉由来」。
 「志賀の里の段」。三輪太夫の渚の方の奥方らしい風情とゆかしさ、それゆえ「光丸よ」の叫びが胸に堪える。小住太夫が乳母小枝を伸びやかに、腰元の亘太夫と碩太夫は面白く聞かせた。三味線は團七、ツレと八雲を友之助と錦吾。のどかさから一転しての嵐、古風な八雲もよく聞かせた。

 「桜の宮物狂いの段」津駒太夫、始太夫、芳穂太夫、咲寿太夫、藤蔵、清志郎、寛太郎、清公、清允らが並ぶ。藤蔵の三味線は音の津波のように寄せてくる。津駒太夫は一人子を失った打撃に打ちひしがれた痛々しさ、「焼野の雉子夜の鶴」の哀れさ、そこから正気ついてまた噂話を聞いての驚きなど、渚の方の感情の変化をうまく聞かせ、この場の主題を表出した。

 「東大寺の段」靖太夫、錦糸。靖太夫は語りだしから東大寺の格式、それゆえ渚の方が場違いと恐れるような雰囲気をきっちりと語る。そこから雲弥坊とのやりとりは、まだ詞が寝れていないと思えるが、非人の女への望外の情けなど、「人を助くる出家」を納得させる語り。ここも錦糸がその場を見事に立ち上げる。

 「二月堂の段」千歳太夫、富助。人形も見せ場が多い。良弁僧正は緋の法衣と品位のなかに、人にかしずかれ敬われながら、自分自身の出自がわからないという不安をにじませる。そしてようやく非人の婆とさげすまれていた者が自分の母となる、ある意味くどいやりとりを、千歳太夫は丁寧に仕上げた。
 身分の壁、気後れ、それでももしかしたらという一縷の望みが、この奇跡を生み、「そんなら、あなたが」「そもじが」で30年積もり積もった思いがはじけて泣く、ここで拍手がくるほどの出来であった。富助はこの全体を背後で統率し、弛緩なくこの場の格を作り上げた。
 和生の渚の方は、師文雀を思い出す出来。女の一生ともいうべき流転の中にも品位を保ち、母たるものの姿に迫った。良弁僧正は玉男、動きの少ないかしらもよく映るようになった。乳母小枝は紋秀、腰元藤野は紋芳、腰元春枝は玉誉、このあたりも場をわきまえた遣いぶり。花売り娘の簑紫郎は華やかに印象的、吹玉屋は勘市で吹玉を大きく見せるなどの工夫で楽しませた。亀次の船頭はやはり存在感がある。
 雲弥坊は幸助、伴僧にしてはやや前受け狙いか。弟子僧の文哉と玉翔、動かない役なりの工夫。

 最後に「傾城恋飛脚・新口村の段」。口の希太夫と團吾が簾内というのはもったいないの一言。前、呂勢太夫は寛治の糸に導かれ「京の六条数珠屋町」などをしっとりと聞かせた。
 後は文字久太夫、宗助で、孫右衛門と梅川とのやりとりにも情けのこもる出来。人形は忠兵衛を勘弥、梅川を清十郎、この二人は息の合ったところを見せ、梅川の嫁らしさも出色。親孫右衛門を玉也、落ちのびる二人を見送る姿がすべてを語る。忠三郎女房は簑一郎、動きがあって楽しませてくれる。

 さて、全体として、正月に襲名というおめでたい事が続き、客席も大いににぎわったのは喜ばしいことである。新織太夫にはますますの精進を期待する。それは彼一人にとどまるものではなく、文楽座全体にとって、文楽という稀有の貴重な存在を世に示し、輝かせるものであってほしいから。

カウント数(掲載、カウント17/02/03より)