花に花を重ね――平成29年4月公演 六世豊竹呂太夫襲名披露

森田美芽

豊竹英太夫改め六世豊竹呂太夫襲名披露公演を初日から重ねて見ることで、この舞台の成果を改めて振り返る。
幕開きの「寿柱立万歳」。この公演全体の寿ぎでもある。三輪太夫の清やかな一声、津国太夫の剽軽さ、清馗の切れ味とリード、紋臣の太夫は爽やかな二枚目、清五郎の才三はとぼけた味わいでいずれも嫌味のない爽やかな遣いぶりだが、もう一歩踏み込んだ性根の表出があってもよいかもしれない。この二人ならそれができるはずだ。

「菅原」三段目は若手の太夫たちにとっての大きな挑戦であった。
「茶筅酒」を芳穂太夫が宗助と語る。前半では白太夫と十作の詞が判別しにくかったのが千秋楽に近づくと大きな進歩。
ただし「陰膳」や「いまじゃない」など、桜丸に聞かせていると思われる個所が、やや芝居がかって聞こえる。「喧嘩」を咲寿太夫と小住太夫が交替で。
咲寿太夫は男の詞にまだまだ課題が残るが、明確な発声で前に出せたのは何より。小住太夫は力の入ったところを聞かせ、松王と梅王の語り分けが明確。清丈がどちらにも的確なサポートに徹する。

「訴訟」を靖太夫、錦糸。靖太夫は初日やや平板に聞こえたが、千代が相嫁たちと分かれる切なさなど、丁寧に語れるようになっていた。錦糸はこの場の白太夫に代表される陰の嘆きまで響かせる。
文字久太夫、藤蔵の「桜丸切腹」。初日は上の声と下の声が届き切らず切腹にいたる桜丸の覚悟と何とか命を救おうとする白太夫の嘆きに不満が残ったが、千秋楽に向かって落ち着きも増し、困難なこの一段を語って成果を残せたことは評価できる。藤蔵も力演。
人形は簔助の桜丸に極まる。菅丞相の流刑の原因となった自らの咎のゆえに、切腹する覚悟の透明な清々しさ。本当に「微笑している」ように見えた。
この絶望の中で、まるで天命を知るかのように。父白太夫は玉也、何とか子を救おうとする覚悟を、前半はほとんど「諦め」のように見せるのがこの人の力量である。
簑二郎の八重の愛らしさと一輔の春の落ち着きの対比。幸助の梅王丸は、前半は動きが大きく直情径行なところを強く見せ、後半は父の様子に異変を感じこの悲劇を見届ける長男らしさを見せる。
なぜかこの段は、茶筅酒ののどかな春の日差しの中に、すでにこの家族に迫っている崩壊の悲劇の影が差しこんでいるように思われた。その印象は最後まで変わらなかった。

休憩と国立劇場の表彰を挟み、口上。先代とのかかわりの深い咲大夫、清治の洒脱な口上の後、勘十郎も趣を変えて微笑ましいエピソードの一端を語る。欲を言えば、親しみだけでなく、清治の語ったように、情の深い浄瑠璃に関わる一言があればと思った。

寺入りを呂勢太夫、清治。この二人をここに配するという贅沢。
よだれくりの笑いと、後ろ髪を引かれる千代の対比。これからに垂れ込める不安が舞台を包む。ただ、端場としては、「大きな形して跡追うのか」あたりが重すぎたのではないか。

そして今回の眼目である、呂太夫、清介の「寺子屋・前」。
前半部分は源蔵と戸浪の覚悟。まず呂太夫は、「せまじきものは」にいたるまでの、入門したばかりの寺子を殺すという理不尽を納得させるまでの二人の心理をきめ細やかに描く丁寧に語った。
間をおかず春藤玄蕃と松王の出となる。その緊張を和らげるのは村の親父たち。そのリズムの楽しさ。ここはこうした変化を観客にも楽しませるように語る。
しかしそれもつかの間、いよいよ松王の本性を現すかのように、一つ一つ逃げられぬように追い詰めていく語り。主君のために何としても自分の息子を源蔵夫婦に殺させなければならない、その痛みといら立ちが、外には怒りになって現れる、その語りの峻厳さ。
ついに夫婦は逃げ隠れもできない状況で、他者の子を身代わりにし、その嘘をもって松王に対抗する。その息詰まる呼吸、源蔵と戸浪の本気、一つ一つが鬼気迫る語りである。
しかし、首の落ちる音に一瞬苦痛の表情を見せ、すぐまた戻る玉男の松王の潔さ。「ためつすがめつ」から「菅秀才の首打ったは、まがいなし、相違なし」の緊張感。一瞬引き付けて、そして息を吐くタイミングでの語り。ここで観客も一体となってほっと息をつくのを感じた。
これらの間を支える清介の的確さ。わずかに顔を曇らせ、退出する松王、呆けたように見送る源蔵夫婦。呂太夫は何度も見、観客もほとんど知っているはずの、この身代わり劇の真骨頂を聞かせた。息子を犠牲にしてというある意味文楽の定番である物語が、なぜ今もこれほど私たちに迫るのかを納得させる語りであった。

後半は、唯一の切語りである咲太夫に委ねられる。
勘十郎の千代の哀れさ、わが子を犠牲にした悲しみは周囲への配慮どころではないといった風に。「にっこりと笑って」死んだ息子を聞いた時の泣き笑いに咲太夫の底力を感じた。それは前段の白太夫の嘆きと重なり、胸にあふれた。
そして「いろは送り」の哀切。確かに、声は衰えている。しかしこの迫りはなんだろう。咲太夫にとっても、やはり「命がけの浄瑠璃」に他ならないと感じた。燕三の「いろは送り」の美しさも忘れがたい。
人形では、まず玉男の松王が、三段目での憎らしさと四段目後半の戻りに至る性根の変化を見事に描き、忠義と親子の情に引き裂かれる痛ましさを納得させた。勘十郎の千代は三段目は控えめに、四段目の嘆きを直截に表し、母としての辛さに否応なく同調させる。
和生の源蔵は直情径行が前に出る。勘寿の戸浪は子どもたちを見守る母性と女の情熱を内に秘める女。文司の玄蕃は首の動きに性根がよく出て、玉翔のよだれくりは愛嬌あり。簑太郎の小太郎は健気で、母と分かれるところが何とも言えない。和馬と簑之の管秀才も品よくまずは及第点。簑紫郎の御台所は高貴さと母性をうまく表出した。玉路の三助は動きに工夫が見えた。

第二部は珍しい『楠昔話』で咲甫太夫、清友の「碪拍子の段」から。咲甫太夫がのどかな山里、睦まじい夫婦のやり取りを描きつつ、そこに影を落とす伏線を見事に示す。清友の三味線はそうした風情にふさわしい。
「徳太夫住家」の中を始太夫、喜一朗。始太夫は久しぶりの盆だが、この人は着実に力を蓄えたと感じる出来。喜一朗ともども、もっと注目されるべき人であると思う。
奥を千歳太夫、富助。前半ののどけさと家族愛から、義理の親子による対立に巻き込まれる悲劇。あざといかもしれない設定を、説得力ある語りで力を示した。
徳太夫を玉男、小仙を和生。前半ののどかさから後半の緊張への変化と、どこまでも義理を通そうとする律義さを印象付けた。おとわに文昇、宇都宮公綱に玉志、妻照葉に勘弥、楠正成に玉佳。おとわと照葉の確執、公綱と正成の対決など、見応えがあった。勘弥が照葉の気位の高さを好演。玉志は荒物にはまる資質はあるが、それだけで終わらない人だと思う。

今回の『曾根崎心中』は、全くの私見だが、どこか違和感のようなものを感じてならなかった。これほど回を重ねているものだから、一定水準では物足りないと思うせいかもしれないが。
「生玉社前」の睦太夫、清志郎。前半のお初と徳兵衛の出会いがあっさりしすぎ、遊女となじみ客の恋愛、というよりも町娘の恋という感じ。後半は九平次の裏切りにもう一つの強さがほしいところ。「天満屋」を津駒太夫、団七。お初はもっと九平次に対し強く出るかと思ったがそうではなかった。徳兵衛が足を取るところもなぜか1回だけだったように思う。
「道行」を呂勢太夫、咲甫太夫、芳穂太夫、希太夫、亘太夫、寛治、清志郎、寛太郎、清公、燕二郎。大道具の配置がいつもと違うようで気になった。一歩一歩死に近づく道行の哀れさと覚悟のほどが、いささか盛り上がりに欠けたのではないか。
勘十郎のお初はなぜかこの人の持つうまさよりも清純さが目立ち、清十郎の徳兵衛は誇り高さの片りんを見たが、受け身的な性格を強く感じた。九平次は玉輝、徳兵衛をなぶる上から目線のような憎らしさ。お玉は紋秀。

今回の襲名披露公演を通じて感じたのは、はっきりと「若太夫」襲名に向けての1ステップであったこと。襲名は、本人が一段階芸が上がるという意味だけではなく、それを取り巻く一座としての文楽座、そのマネージメントをする文楽協会、世界遺産としての文楽を保持しかつその芸術としての質を向上させる日本芸術文化振興会、それらのすべてにとって、もう一段上のものが求められ、それを実現していかねばならないということだ。
呂太夫は70歳にしての出発と語った。文楽は、一瞬にして過去と現在をつなぎ、五感を通じてその世界の秘奥に触れることができる。さらにそれを超えて人間性の深みに迫ることができる。文楽に関わる方々が、それほど深い芸の世界に携わり、支えているという誇りを持つことができ、また私たちはそのことを喜びとできるよう、この尊い機会が与えられたことに感謝しつつ、新呂太夫の新たな歩みを注目していきたい。

カウント数(掲載、カウント17/05/13より)