「観世」三月号巻頭エッセイ

月刊誌「観世」三月号巻頭エッセイに掲載された私の文章です。読んで下さい。
【「いま」息吹く】

人形遣いが舞台に登場するたびに拍手が起こる。すると、太夫の語りと三味線の音色が消され聞き取りにくくなる、という声を耳にする。しかし、床(ユカ・太夫、三味線が並ぶ舞台右横のステージ)の上にいる私は喜んでくださっているお客様の存在を覚え、心和らぎます。また、1956786_546476772158640_7766522012379387248_o字幕が舞台の上や横に展開されるのが邪魔になり芝居に集中できない、という方もいます。しかし字幕を通して、語られる漢字が目に飛び込んでくると、おぼろ気にも物語の筋と内容が伝わってくるものです。
さて、去年の十月半ばに北海道伊達市で文楽公演が催された。地元の個人メセナグループの招きによるものだ。幕開けに「二人三番叟」を演じたが、そのフィナーレの折、三味線連弾の激しい繰り返しに呼応し、鈴を持った三番叟の人形二体(一体に3人の人形遣い)が軽妙に跳び回る。三味線のチリンチチン♪の幾重ものフレーズがクレッシェンドに昇りつめていくそのさなか、なんと場内から、三味線と人形の足踏みのリズムに合わせての手拍子が沸き起こったのだ。同じ出来事が年末の博多座公演の初日にも起こったのだから、ただただ呆然。数百人もの一斉の手拍子は、その場にいる全ての人の心を奮いたたせる。
客席がノルと舞台の緊張は昇華され、劇場の器ごとひとつの呼吸に身を任せることになる。五十年近い修行生活の中での初めての体験に私は舞台上で感涙した。
これとは角度の違った異次元の得がたい体験を去年の三月、松濤の観世能楽堂でも味わった。能と文楽の新作、それも聖書に基づくキリスト劇を同じ舞台上で前後に競演したのだ。これはひとえに、能の未来への切り口をひた向きに探究されている観世清和さんの御配慮によるものだ。ゴスペル・イン・文楽「イエスキリストの生涯」奏演中は舞台から客席を、新作能「聖パウロの回心」の上演中は客席に身を沈めて場の雰囲気に耽ったが、能・文楽・一般のファンの方々の心を一にした、息を飲むような雰囲気が伝わり、客席の椅子ごと飛翔していくような、昂揚した「無」におそわれた。
さて、今年の三月下旬に再び能と文楽との「同じ場」でのパフォーマンスが実現する。観世清和さんの「翁 日吉之式」の直後に文楽の「二人三番叟」を奏演するという信じがたい公演だ。そして、場所は赤坂サカス。まさに「いま」が息吹いている空間である。
古典と現代、能と文楽という二つの出会い。クリスチャンの私には、観世御宗家が「能」を携え、文楽に、そしてこの世の現実社会にイエスキリストのように舞い降りてきてくださったかのように思える。二つの奇跡が重なった空間をぜひ、多くの皆さまと共に味わいたい。