御霊神社 落語と素浄瑠璃

森田美芽

 日本全体が、重苦しい事態に投げ込まれている。あまりに突然の災禍、あまりに甚大な被害、未知なる危機、何故と問うことすらできない、あまりに大きな自然の力になすすべなく翻弄されるのみ。
 しかし、生きている者は、苦しむだけでは生きていられない。どんなに頑張っても、眠らずに働くことも、食べずに働くこともできない。痛むこと、共に苦しむこととともに、ともに喜ぶことがなければ生きてはいられない。

 雀松の落語を聞いた時、本当に、救われたような気がした。当たり前の、他愛もない笑いの空間。笑うことをはばからずに済む時間。それがあることはなんと素晴らしいことか。
 笑うことで、自分の感覚が戻ってきた。愚かなこと、おかしなこと、人の世の習い、ボケとツッコミ、そうしたかかわりなく生きられる人はいない。「住吉駕籠」の、駕籠かきと客のやりとり、どちらも負けていない。そして酔っ払いのからみで「酒屋のさわり」の一節、確かに酔っている。住吉らへんでは、こうしたやり取りが本当にあったのだろう、と、住吉街道の在りし日が偲ばれる。

 英大夫、清介の「平家女護島・鬼界ヶ島の段」。
 謡ガカリ、「今生よりの冥途なり」で、絶海の孤島を吹きすさぶ風の音が見えるよう。何よりも孤独、閉ざされた世界、そこから外に出ることのできない世界の息苦しさ、飢え、体の衰え、「捨てられる」という痛ましさ。
 千鳥の出でほんのりと紅をさしたように、声に明るさが加わる。千鳥の愛らしさはわずかにそこに見える未来のゆえか。

 赦免船の到着、瀬尾の憎らしさが少し届いていないか。しかし自分の名だけがない、その絶望はいかばかりか。まだ生きる望みのあるところで、たった一人残されるとは。
 丹左衛門の情けで一転、希望が見えたのもつかの間、千鳥を乗せまいとする瀬尾に、3人は一致して千鳥を守ろうとする。この連帯感。千鳥のくどき、「鬼界ヶ島に鬼はなく…」の哀れさ、これに心動かされる俊寛、「我を仏に」これは英雄心からか、妻を失った絶望か、否、父が娘の幸せを思うように。
 ついに瀬尾を害して自ら島に残ることを選ぶ。千鳥は申し訳なく「夫婦は来世もあるものよ」と残ろうとするが、俊寛の説得はさらに凄惨である。この世ながらの三悪道を生きるという覚悟。「互ひに未来で」とは、もはや今生では会えない、会わないとの意味。
 そこまでに言いながら、「思いきっても凡夫心」。この俊寛の心の揺れ、そして本当に、ただ一人取り残されるという、誰にも理解されず見取られず、を選ぶその思いと、嘆き。10年前に聞いた時より、数段上。否、呼吸も十分、俊寛の人物に厚みが加わり、瀬尾と丹左衛門の対比、そこに生まれる悲劇が自然とつながる。
 そして若い二人の幸せを念じつつ、自分を断念するその極限の犠牲に至る思いを、深い共感をもって語った。

 清介の三味線はいうまでもなく、近松の広がりと劇的世界を描くに十分な理解と、心理、景色、葛藤、背景を包み込む色を感じさせた。
 いま、絶頂と言ってもいいのかもしれない。劇場では聞けないこのいまの充実が、心を満たし、静かに広がっていく。

 生きること、それは人によってしか、その力は与えられない。俊寛の孤独こそ、その絆を自ら断ち切った者の絶望である。私たちはこうして、支えられていまを生きている。私たちはひとりではない。
 この絆がある限り、絶望ではない。世の終わりであっても、最後まで林檎を植えるといったマルチン・ルターのように。

 「定められた時は迫っています。今からは、妻のある人はない人のように、泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです。」(聖書 コリントの信徒への手紙第1 7章29-31節)

2011年3月13日記

カウント数(掲載、カウント11/03/17より)