蠢(うごめ)く影たちの夏―2008年夏公演―

森田 美芽

 五月闇という語は盛夏の公演にふさわしくないかもしれない。しかしこの夏公演の第二部、第三部に私が感じたものは、闇のなかをうごめく、情念とも愛欲ともいいがたい何か、まとわりつくような重苦しさと、自分の中に沈んでいくような感覚。
 それは、屈託なく舞台を楽しみ、その中に入り込むことのできた第一部の楽しさと対照的な、しかもどちらも文楽を見る者を捉えてやまない力を示したものだった。
 
 第一部、親子劇場は『西遊記~悟空の冒険』。
 これまで何度も上演され、手直しされてきただけあって、舞台全体が手馴れた、無駄なく運ばれるものになり、演じる側も、ここは遊びを入れる、ここはシリアスに、ここは盛り上げる、といったリズムを楽しんでいるかのように思われた。ただ物語の流れとしては、「閻魔王宮」を発端とすると、なぜ「桃園」でのエピソードが入りさらに三蔵法師との出会いが起るか、間の解説なしでは理解できないし不自然な感じがあるので、このあたりはまだ改善の余地もあろう。
 
 「閻魔王宮の段」の津国大夫、団吾は手堅く明確。
 「桃園より釜煮の段」の三輪大夫はこの場での起承転結を楽しませ、清志郎は音色に余裕が出てきた。
 「火焔山より芭蕉洞の段」の英大夫、団七はここぞ本命、と言わんばかりに本格的な浄瑠璃の格を崩さず、入れごとが単なる遊びや目先の面白さで終わらない実力を示す。
 「祇園精舎の段」では松香大夫、始大夫、咲甫大夫、文字栄大夫、咲寿大夫、喜一朗、清馗、清丈、清公らが品格あるハーモニーを仕上げる。
 
 人形では無論、孫悟空の勘十郎が理屈抜きのおもしろさ、そして大きさ。牛魔王の勘緑、羅刹女の紋寿との対決、ことに化け比べの場面は息もつかせなかった。勘緑はこうした役を創造する力を示した。
 三蔵法師の玉輝の品格、幸助の猪八戒の愛嬌、勘弥の沙悟浄のユーモラスな味わい、玉佳の番人才覚延の見せ方も楽しい。間に文楽への案内として勘市が人形解説と体験を行う。勘市はこの解説がうまい、というより、穏やかで誠実な人柄が伝わって、自然と聞かせるものがあるのだ。
 子供たちは我先にと人形体験を求める。こうした一体感、客席の子供たちも、「怖いー」「へえー」といった声が自然に出る。それは少しも耳障りでない。子供たちが自然に入り込んでいるのがわかるからだ。
 そして子どもたちにとっても、本当に楽しいいい思い出となるだろう。何がどう違うのか、それを経験した者にしかわからないものを彼らは見ているのだ。それが彼らの一生の糧となってくれることを望む。
 
 第二部は近松作品。
 『五十年忌歌念仏』より「笠物狂の段」。一幅の絵のような、それでいてなんともいえない寂寥感に引き込まれる。富助の深く鋭く切り込まれる一撥。それにつれて、喜一朗、清馗、寛太郎、若いがすでに手に入った三味線の音が、地の底から響き始める。
 音に音が重なり、空気が動く。寄せて返す波、日差しのやわらぎ、人々の足音、様々に拡がっていく。しばし三味線に酔い痴れる。
 千歳大夫、南都大夫、睦大夫、芳穂大夫、希大夫。千歳大夫は物語の地の部分が聞こえる語りだが、やや高音部が届ききらないか。
 清之助のお夏、ただ清十郎しか見えない、その切なさがさやさやと響いてくる。愛らしくもその身のうちに、自らを狂わせるほどの狂気の名残をふとにじませる。清三郎のおしゅん、勘市のおさんとの連れ舞も鮮やか。玉勢と紋秀の、旅の男女の仕草が場を和ませる。
 
 『鑓の権三重帷子』
 近松の人間を見る目は的確である。だれもが欠点や弱さを持ち、私たちは自分の内なるそれを見出してはため息をつく。今回目にした、おさゐの女としての弱さ、矛盾、権三のやや斜めに見るような姿勢、萌えるような一途な若者の恋ではなく、立場と義理、打算と意地、武家の体面と本音、そうしたあわいに隠された人々の思いが明らかになる。
 「浜の宮馬場の段」伊達大夫の逝去により英大夫、清介。だが確かに伝わっている。その日、浜の宮の馬場で起ったこの事件の発端が、ありありと伝わってくる。
 権三の人となり、確かにいい男、なのだろう。だがそこにどこか投げやりな、というか、不満というか、この時点ではまだ確とは見えていないが、根本的な満たされなさがある。
 太平の世、武士とはいえ、武芸や忠義では出世もおぼつかない。降って沸いたような茶の湯の接待の話、それを巡って出世と色欲がうごめき始める。
 川側伴之丞の時折り見せる根性の悪さ。妹のお雪は純情な娘で普通に色男の権三に憧れている。それを橋渡しするお節介な乳母。
 事実があるのなら権三もお雪を娶るのにためらう必要はないのに、このライバル関係でことが複雑になっていることが分かる。岩木忠太兵衛のような古いタイプの武士には、そのあたりの屈折が見えにくい。
 そうした的確な人物描写が英大夫の魅力である。清介はさりげなくこの難しい段を、ごく自然に導いている。文司がこの憎まれ役を堂々と遣った。簑二郎のお雪も武家娘ながら恋には執念深いところを見せる。
 
 「浅香市之進留守宅の段」嶋大夫、宗助。おさゐという人物の内面を描き出して余りある。
 おさゐは37歳、3人の子の母、夫は49歳で江戸詰め。詞の端々に、彼女の誇り高さが窺われる。武家の妻で年齢にも関わらず美しさを保ち、審美眼も高く、使用人に娘の美しさを自慢するあたり、「自分は違う」という意識を絶えず持ちたい女である。
 13になったばかりの娘の婿に権三を迎えようとする。無論それは大切な娘への思いであるが、女性の立場から見ると、もう一つの隠れた思いが見える。無意識の異性への思い、もっというなら、抑圧された閨怨の現れといってもいいような思いが。
 この複雑さは男性には分かりにくいかもしれない。今でも30代後半に不倫が多いといわれるのは、妻として安定していても、自分が女として扱われたい、まだ魅力的かどうかを確かめたい、という思いがあるからといわれる。
 そこまでいかなくとも、たとえばペ・ヨンジュンに熱狂する中年女性のように、自分を一人の対等の人間として扱ってくれる、夫のささやいてくれたことのない優しい言葉をかけてくれる、そんなことで喜びを得て、また家庭へ戻っていく、という現象にも見られる。
 
 ここではおさゐはそんなあからさまな形はとらない。だが権三を「恋婿」というあたり、明らかに彼を異性として意識している。
 彼女は夫を捨てたり家庭を壊したりということを望んでいるわけではない。しかし認められれば嬉しい。そして何より、自分は12も年上ですでに人の妻、母である身であり、権三にとって対象となる異性ではない。年齢差、それだけはどうしようもない。
 しかし評判の美男が娘婿として自分の言うことを聞く立場になれば、それは他のどんな女性にも得られない、彼からの尊敬を受けるという、羨むべき立場になれる。そして権三への迫り方も、茶の湯の伝授を口実にして断りにくくするあたり、したたかである。
 少なくともそこに、娘の幸せという大義名分に隠れて、自分は何も失わず、女性として全てを得ようとする彼女の女としての計算の部分が透けて見える。 
 これを近松が意識して書いたとすれば、驚くべき洞察であると思う。
 しかしそうして好意を受ける権三自身はたいした人物ではない、ということが明らかになる。彼は出世の糸口となる茶の湯の奥義の伝授を受けるために、婿となることを承諾する。
 ここに見る限り、彼には脇の甘さが目立つ。なぜ彼はここでおさゐの娘を娶ることを、成り行きとはいえ承諾してしまったのか。本当にお雪が好きなら、筋を通して断った方が申し訳もたちほかにやりようもある。
 この場は受けてあとでどうかなると思うなら、こうした時の女の本当の手ごわさを知らないし、自分が武士の風上にも置けないことをしたという認識もない。
 そもそも自分の妻を選ぶのに、もう少し物事を考える男なら、自分の出世に有利な女を選ぶというだけでなく、そのあとの影響を考えているだろう。少なくともお雪と通じた時にそれを考えていたかといえば、川側伴之丞との今後の関係を考えれば、手を出すのも控え、それを相手への思いやりと言いくるめるくらいのことはできただろう。
 だが権三には、そうした意志もしたたかさも、女への純情も見られない。だがおさゐの方はお雪の乳母からそのことを知る。その時彼女の中で何かが切れてしまったように思えた。
 
 「数寄屋の段」綱大夫、清二郎。
  人目を忍ぶ闇、奥庭の茶室に二人きり、耳を寄せての伝授事、おさゐ自身が、その一歩間違えればというスリリングな綱渡りを楽しんでいるかのようにも見える。本当に不義密通がしたいのではなく、秘密を共有しあう仲という特別さへの憧れのように。
 だがおさゐが川側伴之丞に言い寄られているという事実から、お雪への嫉妬が燃え上がる。
 帯を解き、自分の帯を締めろと迫る、ほとんど常軌を逸している。そしてそれが不義密通の証拠とされてしまう。それにしてもこんなときにあの帯をしてくるとは、権三はつくづく、おさゐの気持ちが読めない鈍感男ではないか。
 しかもおさゐは、夫の顔を立てるために間男となってくれ、と願うこの自己中心さ。それに引きずられるように「口惜しい」といいつつ「女房」と呼ぶ権三。もはや名誉を守るすべもなくなり、武士の一分はただ切られて死ぬことだけ、という絶望。二人を結びつけるのは、愛でもなく、情欲でもない。互いに相手に向かない滅びへの意志ではないか。
 その暗い絶望の中に揺曳するエロスの翳り。あまりに不本意な、どこにも納得の仕様のない運命に、ただ流されるようにその場を逃れる二人。これほど希望のない道行もないだろう。
 
 「岩木忠太兵衛屋敷の段」
 咲大夫に燕三。先代の作曲が心地よく語らせる。岩木忠太兵衛の父としての思い、孫たちをいとおしむ思い、それゆえ勝ち目がなくとも仇討ちに向おうとする。相手はことの発端を作った川側伴之丞。
 そこに現れる浅香市之進。これから崩壊する家族の名残のように、祖父母、父、孫たちが集まる。そしてこの家族の要であるはずの母親が、討たれなければならない相手である。子どもたちはその理不尽さに耐えられるだろうか。
 こういう言い方が許されれば、近松はここに、妻敵討などという武家の体面のためだけの馬鹿馬鹿しい習慣とそのもたらす悲劇を、この家族の悲しみを通じて批判しているのではと思う。
 玉也の父忠太兵衛、勘弥の母、いずれも芯の通った人物を見せる。玉翔の倅虎次郎が無邪気な愛らしさとけなげさを示し、玉志の岩木甚平も的確な動き。
 
   「伏見京橋妻敵討の段」
 呂勢大夫、咲甫大夫、相子大夫、つばさ大夫、呂茂大夫、靖大夫。
 はなやかで、どこか物寂しい盆踊り唄。三味線は清治が率いて清志郎、龍爾、寛太郎、清公。靖大夫の音がやや甲高く聞こえた。清五郎と玉佳の踊り子も丁寧で場を浮き立たせる。
 もはや討たれる以外の未来もない、誰も幸福にはならないのに、それでも切らねばならないという浅香市之進の無念さが胸に迫る段切れ。そしてこの救いのない男女の機微を描ききった簑助と文雀に、改めてこの芸の底の知れなさを思い知らされた。
 
 第三部、『国言詢音頭』
 『大川の段』津駒大夫、寛治。黄昏時の大川端の風情、田舎侍と大坂の廓、初右衛門と絵屋の仁三郎、残酷なまでの対比。その背景も人物も描いてやまない三味線。その呼吸、間合い。津駒大夫は今回、若党伊平太や初右衛門の詞に力を感じた。
 『五人伐の段』前、文字久大夫、清友。文字久大夫はよく稽古しているのはわかる。だがそれを完全に自分のものとして全体を描ききるところまで行っていない。ここを突き破れるかどうかが彼の正念場であると思う。

 切、住大夫、錦糸。大夫が舞台を率いるとはこういうことであるかと思う。人形の一人ひとりが、それぞれの役割がつながり、一つの主題へ向けて集中されていくのが見える。
 物語のクライマックスを、それまでの人物の動きや心理をそこへと結びつけ、かの凄惨な殺し場を、我々のなかの暗い情念を垣間見させるまでに高める。 
 分析して得られる心理ではなく、性根が動き出し、その人を通して悲劇として納得させるのである。
 初右衛門はなぜ殺したか。そこでは身分が、客と遊女の立場が逆転される、そのことが彼のプライドを傷つけたともいえるし、本当は菊野に恋していたのに、その純情を踏みにじられたことも耐えがたかったに違いない。
 その契機となったのは忠義な伊平太から渡された菊野の手紙。もしこれがなければ、ここまでの惨劇にはならなかったのではないかと思われる。
 だがこの菊野と仁三郎も、仁三郎はぼんぼんで、悪い人ではないが周囲の人の感情にまで気が回らないタイプ。菊野もおみすという許婚のある人と恋仲ということで、おみすへの遠慮もあり、さりとて自分が犠牲になるわけでもない、女のいくつかの感情の層を見せてくる。
 そうした女の多面性や複雑さを受け入れられないところが、彼女が初右衛門を好かない理由でもあるだろう。だが初右衛門にとってはそれは受け入れがたい侮辱であり、もはや国に帰ることもできない、そうした追い詰められた状況の中で、蓄積された怒りを爆発させたという気がする。
 玉女の初右衛門は、恋に狂った妖しさというよりも、一途な田舎武士の性根が強く、故玉男に比べればまだぞくっとさせる色気の発散とまではいかないが、悲劇の骨格は見せた。
 和生の菊野は、遊女らしいふてぶてしさや妖しさよりも、仁三郎の恋人としての性根が強かった。清之助の仁三郎は、脇の甘い色男の性格と、どうして菊野と恋仲になったかを偲ばせる造型となった。
 目につくのは一輔の許婚おみすの、いかにも素人娘として風情が菊野と対照的で、簑一郎の幇間や紋臣の亭主も存在感がある。簑二郎はここでは派手に切られる仲居がうまい。清三郎の弟源之助も前髪の瑞々しさを見せる。
 
   だがこの『国言詢音頭』は、どうしても8年前の舞台が忘れられない。
 呂大夫が語った「五人伐」の端場、あの夏の夜のけだるさ、思いのやるせなさを感得させた語りも、また貴大夫の伊平太の一途さも、玉男の初右衛門の妖しさも、どれもまだ感触として残っている。そして伊達大夫の、人間味溢れる語り口も。
 「失われたものはかえってこない・・・何が悲しいったって、これほど悲しいことはない」
 中原中也の詩に、いま私たちもその思いを重ねる。また夏が行く。
 失われたものを惜しみつつ、しかしいまなお生き続ける者として、あの闇の中を手探りで歩く頼りなさとまとわりつく思いを引き受けつつ、歩もうではないか。実りの秋は目前である。

カウント数(掲載、カウント08/08/17より)