言葉の記憶―現代詩と浄瑠璃

 現代詩を浄瑠璃で語ることは、思い付きのコラボレーションなどではなく、
私たちの言葉の原点に迫る、私たちの言葉が成り立つその限界にたつ試みであった

森田 美芽

 詩人の持つ言葉はしばしば我々を、言葉の生まれ出る孤独へと誘う。私が私として、自分をその混沌から紡ぎ出し、私という名を与えるその淵源に向かわせる。
 浄瑠璃の言葉は、一つの物語の役と意味と背景を備えて語られることによって命を得る。
 個性などという、付け足しも気まぐれも許さないその規矩の厳しさが、彼らから感情移入という小細工を奪い、言葉を極限まで純化する。その間を鋭く切り裂く三味線が、絶対的な他者として、その言葉を引き出すだけでなく、世界を導き、開き、彼らに新しい物語を語り始める。

 二つの言葉の始まるところ、その出合うところに立ち会った。
 2007年8月26日、大阪、山本能楽堂。「古典の新芽シリーズ番外編・現代詩を浄瑠璃で語る」。詩人の建畠晢、高橋睦郎、語るのは豊竹英大夫、竹澤団吾。企画・制作・見立てに伴野久美子氏。1996年慶応大学アートセンターで行われた、「エレギア・モデルナ」を再び、そしてさらなる挑戦。
 期せずしてか、その先鋭なる旗手たちの中に、最も深い孤独と、それを揺るがす根源の絆ともいうべき母と子の縁、そしてそれへの葛藤を見ずにおれなかったのは。

 由緒ある能舞台、老松の前に、萌黄に萱取草の長絹と縫箔、「百万」の母の装束。縫箔は縹色と茶色の交互の段の組み合わせ、稲穂と蒲公英のあしらい。
 子を失い子を求める母の装束は「紅無」、どこか寂しげな、秋を思わせる色合いのしっとりと穏やかな、包み込む風情。客席と舞台の近さ、脇正から見る舞台は2枚の緋毛氈に見台、背後に三つの葛桶。その簡素にして十全なる能舞台の空間。

 まずは2人の詩人、司会の伴野久美子氏が背後に、英大夫と団吾が座布団なしのその座につき、「パトリック世紀」の語り。
 繊細なるオクリの崩し。
 「世界とは、何と美しい誤解だろう」と、ゆっくりと立ち上がる、それはパトリックという一人の名に擬せられた人物でもあり、同時にどこかのだれか、そして私の目に浮かんだのは、生玉社前の徳兵衛がこちらをゆっくりと見回しながら立ち上がる風情。いくつもの人が描きうる、その人物の寸描。
 「ある朝には/海の風が渡る庭で/彫像に水をかけて洗った」
 この中に、溢れる光、地中海の沿岸で、渡り来る風の中で、彫像を洗うという日常の営み、そのひそやかさ、内に秘めたる思い、光の降り注ぐ自然の中で、その中にいる人間という違和感。
 (パトリックはパトリック世紀を造ったのだ)
 遠くよりの呼びかけ。ここはパトリック自身ではなく、その外からの彼への呼びかけ、こうあるべしとも、こうでしかないとも。私の被投性と私自身の乖離。
 「パトリック あなたの誤解は/今もまばゆい」
 パトリックと呼ばれる人は3人が重なっている。現実の芸術家、反逆の政治家、そして伝説のアイルランドの聖人と。そのだれもが、自分から世界に向けて、戦いを挑んだ。しかしそれは大いなる誤解であったのか。造られたものの大きさとその真意の乖離。
 「意味のない誤解はない/パトリック、パトリック!/21世紀は近い」
 それは希望ではない。世界との運命的な乖離が、時間からの距離はむしろ彼を遠ざけるだろう。にもかかわらず、「意味のない誤解はない」のだ。
 この詩は、4場の短い詩物語のように、段落が独立して一つひとつの場が立ち上がる構造に聞こえてきた。そこにパトリックともう一人、あるいは複数の他者がいて交錯し、すれ違う、あるいは遠くから理解し共感する声が、浄瑠璃の合間から響き交わす。
 深い深い、私が私でなくなるところで成り立つ会話のように。

 「緑の劇場」
 もし、私たちの人生が劇場であるとしたら、私たちは否応なしに巻き込まれているのだ、この不快な仕掛けの劇場というのは。
 私は見られるために生きているのではない、にもかかわらず見られる者として辱められ、誰かの慰みとなっている。私は時に誰かを見て密かに安堵し、時に羨み、大抵は自分に満足して終わる。見ているつもりが見られているとは気づかずに。
 その男は言う。「切符を二枚下さい。私は二人なのですから。」しかしこう問われる。「あなたは、どの時代の方かな。」
 私は本当は一人ではない、私には人に知られる自分と、人の知らない私とがある。しかし人は私を、その人の見ているところに押し込める。私を断じて分裂させようとする。それに抗う私。禿頭、短足、44歳、そんなことは私という記号のごく一部でしかないというのに。

 「どの時代の」それは残酷な問いだ。
 誰も自分の生まれる時代を選ぶことはできない。私は一人で何度でも新しい生き方を始めることができる。なのに、それは言下に否定されるのだ。この二人の致命的な食い違い、ディスコミュニケーション。この対話劇の空しさと苦痛。
 なぜ、数ある建畠晢の詩のうち、「パトリック世紀」であり「緑の劇場」なのか。
 建畠晢の詩の中には、乾いた孤独がある。強烈な自我と、それを簡単に認めようとしない世界との葛藤の中での乾いた孤独。自己を見出しつつも演じざるをえないその不快さと違和感、苛立ち。自身の朗読の中にそのパフォーマンスを入れるほどに、その詩世界の中に見る自恃の高さが私たちに迫ってくる。

 高橋睦郎「ぼくは お母さん」。
 3人の母、土方巽の母、スガの部分を英大夫が語る。
 「お母さん
  ぼくは あなたが頭髪から燃えあがって
  巨大な炎になってしまうのではないか
  と いつも思う」

 自分の身の危険すら鈍重に反応するしかない、「巨大な化物」。それがその母である。火に向う、火に対峙する、それこそは母なるものの日々の戦い。まず子どもを生かせること、そのために自分の命をすり減らすこと、それが火との戦いの全てであったに違いない。
 いまも「日ごとの糧を与えたまえ」の祈りが真実である以上に、生きるために食べさせる、その戦いがすべての力を奪い取るほどに。

 「けれど ほくは同時に知っている
  お母さん あなたが小さな可憐な少女で
  赤い風呂敷を手に 丸木橋を渡っていること」

 子は自分の母親である以外のその人を知らない。まして男の子であった者は、女性が母であることで完結していると信じている。
 その母の女性としての部分、母親以前の自分を、どう想像できるだろう。ここに詩人の眼差しの確かさを聞く。

 「ぼくは 巨大な影の固まりのあなたしか知らない。
  お母さん あなたはいつも火の前にいて動かない」

 思い出される母はそのような「もの」にほかならない。
 どんな思いを持っているか、いくつ諦めてきたのか、そしていまも心の中に何を思っているかを家族には明かすこともない。
 「あなたは声もあげず物として いる」
 家族にとって、母はいつも、いなければ困り、食べられなければ困るという物のような意識のされ方しかない。だが人には生身の心がある。その反逆。
 「しかし 物の中で心が時に耐えられなくなると
  立ち上がって やみくもに走り出す その時
  なぜか ぼくら子供たちを 親餅のまわりの
  子餅のように張りつかせている ぼくらは
  いや 子餅は親餅からちぎり捨てられないよう
  お母さん あなたの巨大な影の輪郭に張り付いて
  暗い風の中を あなたと一つになって 走る」

 親餅と子餅とは言い得て妙だが、そんな生々しい関係でもある、親と子、しかも母親と息子。
 しかもその語りだしは、荘重にして非人格的な三番叟の始まりの節。人としての始まりに、かくも生々しい経験が横たわる、それを遮るように、三味線の手。
 親餅、子餅。竈の前の巨大な肉塊。いつもそうやって見られ、もののごとくに扱われてきた、母という名の物体。それがまた、自分たちを生む以前の人として意識するほか、母から逃れて共に生きる道はない。
 女の子はその道を繰り返し、再び母となり、そして母の母となる。しかし男の子は永遠に「子」である以外はありえない。

 母であることは詩から最も遠い現実である。
 人は母を、あるいは壁と感じ、自分を支配する大きな力であると意識し、それから逃れようとして、逃れられない自分を知る。
 だが、母であることは母によっては語られえない。誰もが「母」であるだけでなく、その名を持つ一人の個人であり、分かちようのない自分の一部がそう呼ばれることで、自分の全てをそう名づけられるからだ。ちょうど「緑の劇場」で、否応なく客席か舞台かを選ばされるように。私は二人であっても、周囲からは一人としか見做されないように。
 どうして、誰もが傷つかざるを得ない事実を、詩として歌い上げることができるだろう。
 だからこそ、この詩は男性によって作られ、語られねばならなかった。

 高橋氏自身の朗読によるエレナ・チャウシャスク篇。彼女は、自分に銃を向ける若者に対し、「私はお前の母ではないか」と言ったという。
 国の母という錯覚が、兵士たちに引鉄を引かせる。
 「あなたは私を守り育てる母ではない」という反逆。母殺しとは自分を否定することだ。だが若者は、そうしない限りこの国が再び蘇る日はないと知っていた。その瞬間、彼は引鉄を引いた。
 自分をこの世に送り出した、そして自分の足で立てるようになるまで、あれこれと世話を焼き、食を与え、生きる命を作り出した。だがいまはそれが、彼らを支配する暴力になる。

 「ぼくは お母さん」
 その呼びかけの向うに、権力者としての母の姿が見える。そこから逃れなければ、私は私でありえないのだ。
 私は母であることによって、生涯息子たちの上に君臨する独裁者でありたくはない。だが彼等は私の息子であることを生涯変えることはできない。
 死が分かつまで、私自身も母の重荷を感じ続けた。母の死によってようやく解放された。
 母がくれたものは大きすぎる。感謝とかいえるものではない、あの人がいなければ私は存在しなかったし、物理的に生存できなかった。にもかかわらず、あの人は私の理解者ではなかった。
 そしてそのことを知っていたから、あの人は強く、かつ潔白でありえた。
 私は自分の作る罪を思う。
 そして母であることともう一人の自分であることの葛藤に、巻き込むのではなくそこから新たに始めること。

 高橋睦郎の初期の詩の猛々しさ、溢れるばかりの生命力がかえって孤独を磨がせるような緊迫感を読んでいると、歌詠みはかくも凄まじいものかと引いてしまいそうになる。
 建畠晢の孤独が近代的自我の自覚からする必然であるとすれば、高橋睦郎のそれは、辺境にある者、例外者、異形者、この世に居場所を持たない者の、生存を賭けた叫びであり、自我以前の生命の塊がぶつかってくるような激しさをもつ。
 だがその中から、神と出会い、魂の漂泊の軌跡を見出し、己が言葉に帰ろうとする作業が、いま、「日本26聖人への連祷」のような形に結実するとき、言葉が肉体となる、というこの詩人の生そのものの主題となる。
 憧れて憧れて、それでも辿り着けないふるさとを求めるように、彼の詩はいま、言葉の生まれいずる孤独の中から、遥かなものへの呼びかけとして、私たちの魂にはいってくる。

 後半の素浄瑠璃「傾城阿波鳴門・十郎兵衛屋敷の段・後」ここは意外に聴く機会が少ない。
 前半の「ととさんの名は十郎兵衛」や「いかせともない」のくだりは人口に膾炙しているが、実の父が娘と知らず、金のために誤って殺してしまうという陰惨な場面。
 泣けなかった。実の親子でありながら、また自分が誰に会っていて、何ゆえ殺されたかも知らぬまま亡くなったおつるの哀れさ、最後に、娘の亡骸もろとも屋敷に火をかけ、火葬にする。
 子と親、その宿命はどこまで続くのか。
 私たちは一人で生まれてきたのではない。誰もが親をもち、その母の胎から生まれる。この絶対の絆が、人を縛り、結びつけ、また混乱して傷つけあう。我々は孤独ではないという対置に、親に殺される子どもと親を殺す子が存在する。
 私たちの絆はかくも黒々とした運命であるのか。

 母と子を巡って、しかしこの場において、浄瑠璃によって語られた言葉は、われわれを一人ひとりの孤独へ追いやると共に、再びそこを通ってわれわれを言葉によって結びつける。
 その場を共有することによって、私たちはどうしようもない生存の孤独からしばし癒される。
 われわれは否応無しにこの世で孤独に戦わざるを得ない。その非条理をしばし見つめ、ただその暗黒にわれわれが共に立っているということを、そこに私たちは一人でない、その孤独の中にこそ、血の絆を超えて私たちを結びつけるものがあるということを、思いださずにおれなかった。

 現代詩は、おそらく浄瑠璃世界の想定しえない個人の自我の世界であり、そこに見えない緊張と言葉の激しいぶつかり合いが起ると予想された。
 しかし思えば、ぶつかり合いというより、浄瑠璃という場がその猛々しい自我の葛藤を包み、私たち自身を包む空間の、なんともいえない間合いと声の充実へと導かれた。その正体が何であるか、まだ位置づけることができない。あの、垣間見えたように思えたものは何だったのか。
 能楽堂を出て、日常に帰っても、まだなお心に残る違和感のようなもの、それを私は課題として引き受ける。いつ絶えるとも知れぬその感覚を確かめ、自分がこの世に生きる違和感を重ねつつ、あの不思議な空間へ呼び戻されるように。

 この語りの世界で知らされたこと、たとえそれが一つの共同幻想だとしても。
 そして言葉の記憶の彼方に、私たちがその言葉によってしか生きられないその伝統や自覚の上に、私たちがあることへと引き戻されたことだ。ともに語り、ともに聴く力、それこそが、こうしたやりきれなさをこえて、私たちが生きていくための力を得る手段である。
 現代詩を浄瑠璃で語ることは、思い付きのコラボレーションなどではなく、私たちの言葉の原点に迫る、私たちの言葉が成り立つその限界にたつ試みであった。
 その作者、語り手となった方々の勇気を讃えたい。
 建畠晢氏の、眩い都市のさなかに立つ孤独を招く美の試みへの語り。
 高橋睦郎氏の、言葉の本質へ立ち返る魂の旅路をいつも担い、その溢れるばかりの言葉の海から紡ぎだされる語り。
 豊竹英大夫の、それを私たちの現代の場へと招きいれ、言葉の歴史を重奏させるその声と語り。竹澤団吾の、その近きものと遠きものを分かつ鋭い剣のような三味線。類稀なる出会いのとき、密にして開かれたる空間、言葉の重層的語り、聴くという行為への集中、そこで出会った、その空間を作り出した全ての方への感謝とともに、この拙い文章を捧げたい。

カウント数(掲載、カウント07/08/30より)