届かぬ悔い――2007年6月鑑賞教室「忠臣蔵」

森田 美芽

「いかなるをかしき為手なりとも、良きところありと見ば、上手もこれをならふべし。これ、第一の手立てなり」(「風姿花伝」)

 大阪6月の鑑賞教室の楽しみは、何より若手中堅の業の競い合い、そこに垣間見る人間の業の深さである。聞きなれた言葉のなかに、中堅若手の努力と工夫が、その浄瑠璃の本質を届かせてくれることがある。多忙の中、それもようやく「忠臣蔵」のA班とD班のみ1度ずつ見る機会を得た。

 A班、英大夫、錦糸の「勘平腹切」。
 時代物の三段目切の最も重い場、その課題は彼をはじめ次の切場を担う大夫たちに立ちふさがる壁のようだ。45分が重い、それも後へ行くほど重く、ここまで、と思ってもまだ底のある深み、それを語りきるという課題に、彼等は果敢に挑んだ。
 身売りした娘を送る婆の詞、その不審が高まり、縞の財布の発見で決定的となる。この婆の詞、人の良い普通の婆が、次第に不審をつのらせていく過程にうならされる。
 さらに郷右衛門の詞で、彼が決定的に追い詰められたのがわかる。こうした不義をなしたのも忠義のゆえ、しかしそれが不忠といわれるなら、もはや彼に面目を施すすべはない。その勘平の負い目―罪責意識が、彼に腹を切らせるのである。
 その命を懸けた訴えに、全てが誤解であったことが明らかになる。その婆の落胆、勘平の無念、勘平の死から段切れまでのこれでもかと思うほどの苦しい場面が続く。
 しかし英大夫の詞には、それらがあまりに自然な、どうしようもない悲劇として迫ってくるものがある。婆も、娘の幸せを望み、婿に武士としての面目を立てさせたいと思えばこそ、二重に裏切られたという思いからしたこと、弥五郎は若さ故の直情、郷右衛門は主君の無念を思えばこその重みある叱責、それらの全てが重みをもって、その人物の重なり合う悲劇を作り出している。
 忠臣蔵というドラマの中核にある、勘平の悔いの念を見事に描き出した。

 松香大夫、清友の「身売り」。
 松香大夫は決して美声ではないが、自分の音域を保ち、臆せず語る。それが今回よい成果となった。
 もともと詞の端々に年功を感じさせる松香大夫であるが、今回の「身売り」においても、婆の詞、一文字屋才兵衛の詞、その運びの的確さに驚いた。婆とおかるが抱き合って別れを惜しむところが、この場の眼目であると再び知らされた。
 この場の婆の描写があればこそ、「腹切」の婆が被害妄想でなく勘平を追い詰めていくことが理解される。そうした声を引き出し、無理なく出させる、清友にはそういう力がある。

 「二つ玉」の津国大夫、喜一朗にも同じことが言える。実際、津国大夫のまっすぐでてらいのない語りの中に、与市兵衛のあわれがしみじみと出る。定九郎は野卑で残忍な性格を感じさせる。喜一朗は風格が出てきた。

   そしてベテランの力といえば、なんと言っても紋豊の婆、与市兵衛女房である。何よりこの人の良い婆が、娘への思いの故に勘平を追い詰め、その結果一家が散り散りになるという悲劇の結果を生み出してしまう、そのことの悔いをまた強く感じさせた。
 この場合の勘平は、自分の味方となってくれる人を根こそぎ失い、その信頼関係を失うという、二重の孤独の中にいる。和生はその中で、受身の耐え忍ぶ姿を見せる。彼の判官は定評があるが、判官との違いは、判官には負い目がなく、勘平には負い目があること。
 それゆえ、勘平の負い目の深さをどう表現するかに興味を引かれたが、この人の勘平は、悔いというより潔白(まだ事実としては確認されていないが)を胸に秘め、それを出せないことに苦しんでいるようだった。
 おかるは玉英、三段目で勘平を誘惑した顔でなく、ういういしい新妻の顔である。夫を思えばこそ身売りする、けなげで一途な娘かしらを遣う。
 余市兵衛の勘弥はやはり心配りの行き届いた遣い方、玉輝の定九郎、力強く野性味がある。清三郎の才兵衛、単なるチャリではない遣い方。勘緑の郷右衛門、この場の説得力を感じさせる。簑一郎の弥五郎は線の細い青さを感じさせる。

 D班は「二つ玉」、始大夫、清馗、「身売り」、咲甫大夫、宗助、「勘平腹切」が文字久大夫、清二郎、人形の勘平が清之助、定九郎が幸助と、最も若い班である。良くも悪くも、その若さがそのまま舞台に出る。
 たとえば始大夫、定九郎の色悪、野性味を出そうと努力している。だがここで受けに回る与市兵衛の言葉がまだ哀れというにもう一つとどかない。
 父として、娘を思い、その娘の婿のためにとの必死の思いと、その金を目前で奪われる無念、自分の命と引き換えてもという老父のいたわしさを示す息を学んでほしい。清馗はやはり落ち着いているというより、こうした息を備えている気がする。
 咲甫大夫の「身売り」は、思ったとおり通りよい声で生き生きと運ぶ。少しテンポが早いと感じる。特に老母の言葉は、夫を案じ娘を案じる陰影や間が十分にほしい。
 ただおかる、勘平になると、おかるの初々しい新妻らしさ、母に軽口をたたくおきゃんな娘、夫のためにと精一杯別れを耐える決意など、本当に愛らしいおかるの魅力を発揮する。宗助が時に厳しく、時に優しく、浄瑠璃を導く。

 文字久大夫の勘平腹切、正直荷が重いのではと危惧したが、よく頑張ったと思う。また、彼の肚の強さ、終わりに行くに従って、まだまだ奥があるという苦しさを乗り越え、勘平の追い詰められていくさまを描いた。
 郷右衛門の説得力はまだ勉強の余地はあると思ったが、婆の疑い、裏切られた辛さ、必死さに迫っていた。
 清二郎はいつもより息が柔らかく、こうした切場の経験が出た。
 清之助の勘平。彼はじっとうつむいている。自分の犯した罪に耐えかねて、顔を上げることが出来ない。才兵衛の縞の財布を確認してから、彼は自分のしでかしたこと、故意でないにせよ、愛するおかるの父を殺してしまった、しかも手に入ったと思ったのは、妻が身売りして作った金だった、この家族の中で、唯一他人である自分が、さらにおかるとの絆を取り返しのつかないものにしたという悔い、そして郷右衛門に責められ、こんなはずではと、面目をほどこすどころか、かえって信頼を失ったことの嘆き、絶望、それがどれほど深かったかが感じられる。
 おかるの一家との絆を失い、また塩冶の家中としての立場も失った勘平は、命にかえてその絆を取り戻そうとした。なんとしても潔白であることを信じてほしい、その必死さが胸を打つ。
 彼は自分の命と引き換えでなければ、「傷を改めてくれ」との要求すら出せないのだ。その苦渋を、腹を切ってから爆発させる。「やあ仏果とはけがらはし」との叫びも、その痛ましさゆえである。
 清五郎の与市兵衛、まだ若いところもあるが丁寧。幸助の定九郎、色悪としての底深さを感じさせる。視覚的に訴える大きな遣い方。玉志の郷右衛門、落ち着きと塩冶家中での重み、一徹な古武士の味わいを感じる。玉勢の弥五郎、さわやかで一途。清三郎のおかる、丁寧に勘平女房の性根、また娘の気安さを演じる。文司の与市兵衛女房、少し硬さは残るが誠実な遣い振り。

「忠臣蔵」全体で見るなら、それは悔いのドラマであると思う。
 きっかけは師直の悪、彼の強欲からすべてが始まり、人々の運命を狂わせる。
 ふとした偶然から愛する人を苦しめる結果になったおかるの悔いと、武士としての存在意義を失った勘平の悔いがこの段の悲劇を生む。おかるが悪いのではない、勘平も平時なら悪いこととまではいえなかった、「いすかの嘴」と呼ばれる運命の食い違い、悪い偶然の積み重なり、それほどのこととは予想できない、というより、予想できないことで自分の運命が左右され、思いと逆に引きずられてしまうという無念が、あだ討ちの執念となって、後半のドラマを作り上げる。
 この場は三段目の流れの重い帰結である。

 なぜ、と問うことも悲しい。
 誰であっても、こうした運命のいたずらのような悲劇は起りうる、そしてそれを産み出す人間の弱さそのものを否定しては、私たちは生きられないのだ。
 あの勘平の、唇を噛み締めて絶えていた、それは身のうちに迫る悔いの嵐のようにも思えた。届かぬ思い、どれほど恥を雪ぎたかったことだろう。勘平の思いにこれほど感情移入したことはなかった。

 これほどの質の悲劇を、いま、ここで見ている。見るように、導かれている。なぜなら、彼等がそこにいるから。確かに現在の切場語りや人間国宝に比較すれば、といいたくなるかもしれない。
 しかし彼等は、もう20年以上も同じ場を勤めている。経験の積み重ねがものを言う世界で、同じレベルで云々することの方が僭越だろう。
 だが、それ以上に、中堅若手の中に積まれた経験や、思いや、情熱が引き出され、彼等の今をかがやかせるだけでなく、この六段目の悲劇に迫る。そうした実人生と舞台との深い係わり合いが、時に名人の舞台以上に、私たちに語りかけるものがある。真実なるもの、私たちが見いださねばならないそのものが。
 心からなる誘惑。欲せずしてしかも心がそこに向いてしまうもの、それを今日も彼等は作り出している。彼等の故に、私はそれを見いだし続けるだろう。文楽という魔の深淵のなかで。