悪の華、永遠の絆――2007年4月公演

森田美芽

 この春は、桜を長く楽しんだ。通いなれた道の染井吉野が、葉桜に変わる風情を飽かずに見た。まだ散るまいと残る花と、次なる勢いをもって色づく緑。昔から何故かその風情に心惹かれた。せめぎ合う二つの力が産み出す絶妙の美、一瞬で変わりゆくその風情、はかないというより、早晩座を譲らなければならぬ花に、はかなさよりも強さと執念を見た。
 4月の文楽もまた同じ力の拮抗を見た。若手の生き生きとした活躍、中堅の実力発揮、まだ座を譲らぬベテラン勢の底力、春はまた戦いの時でもある。

玉 藻 前 曦 袂

 「玉藻前曦袂」は私も初見である。まず清水寺の段。松香大夫が薄雲皇子で掛け合いをまとめ、かつこの物語の主題を示す。桂姫の始大夫は、音使いや息は正統的だが、姫のやわらかさが出るように。新大夫は犬淵源蔵、音が明確。咲甫大夫は采女之助、松香大夫が退くとシンの座につくが、リーダーとしての貫禄充分。相子大夫、芳穂大夫の腰元は、きびきびした詞が楽しい。宗助の緩急も生きる。
 道春館、前、津駒大夫、寛治。二人の姫と後室萩の方、采女之助が登場する華やかな場面、女性の心を描く巧みさ、東風と呼ばれる華やかさのうちにも、はんなりと深い寛治の糸。
 奥、咲大夫、燕三。黒の肩衣と袴、朱の見台、繊細さとはなやぎ、そして物語の暗転、金藤次の出。沈痛な場、死を競う双六。桂姫の死と金藤次の死と、時代物の難しさと面白さの両方を納得させる。やはり次の切語りとなるべき人である。気力、体力の充実、物語全体を弛緩なく運ぶ構成力、「父じゃわい」の嘆きの深さ、その隅々まで張り詰めたものの深さを、燕三の糸が見事に運ぶ。聞き応えのある一段となった。
 玉女の金藤次、萩の方から桂姫の境涯を聞くところに、わずかに滲み出る父の情を的確に、押し付けがましくなく示したゆえ、後の「父じゃわい」の無残さが届く。まだ権柄づくのいやらしさとまではいかないが、父の情愛と使命の葛藤という点では十分。文雀の萩の方、気品と貫目はいうまでもないが、もう立ち回りの必要な役というのはどうだろうか。和生の桂姫、娘らしい恋心の表現。また玉英の初花姫との間に姉妹の絆を深く思わせる。自分ともう一人の自分のように、共に生きてきた間柄である、その情の通い合いを見せる。文司の采女之助、二枚目らしい華やかさと折り目正しさが魅力。亀次が薄雲皇子、力に不足があるわけではない、むしろこれほどの人がこれ一役というのが勿体無く感じる。源蔵の玉佳も着実。

心 中 宵 庚 申

 ■近松の人間配置の妙

 3年ぶりの「心中宵庚申」。
 まず「上田村」は住大夫、錦糸。下女に苦労する姉娘のおかる、そこへお千代がうちしおれた風情で駕籠を出る、その出の風情、「親の家さえ女気の、敷居も高く越えかねて」で、百万言を尽くすよりもお千代の辛さが伝わる、この簑助の至芸。
 おかるは最初妹に意見していたものの、妹の事情を聞いていたわる。その風情のいとおしさ、姉妹というつながりの美しさ。しっかりした姉娘はどこまでも現実的に対応する。だがお千代の嘆きは癒されない。そこへ病んだ父の「案じらるるは子の身の上、三度は愚か百度千度去られても・・・」ここでの文吾の、父島田平右衛門が素晴らしい。苗字を許された豪農、その誇りと縁薄い娘への愛が胸を打つ。
 突然現われた半兵衛に、父は冷たく対応する。自分の留守中に妻が去られたことも知らされていない半兵衛と、娘を思う父。上手に父、下手に半兵衛、その間に入り、針仕事をするおかる、この絶妙の間と芝居。出すぎず、それでいて彼女がそこにいて全てを聞いているという存在感、妹を思う父の気持ち、また半兵衛の思いをそれぞれに受け止めながら、さりげなく針を動かす。
 決して目立つ芝居をしていないのに、その舞台全体が思いを感じ取ることができる。半兵衛の苦悩の果ての決意が見える。「尽未来まで女夫」というお千代のいじらしさ。水盃、門火、「灰になっても帰るな」の父の肺腑をえぐる言葉。
 紋秀、玉勢、紋吉らの下女、おかるが「下々には何がなる」と嘆くのが当然とわかる遣いぶり。勘弥の金蔵の軽さと小心さも。

 「八百屋」嶋大夫、清介。この家の複雑な状況が明らかにされる。玉輝の主人伊右衛門は人が良いだけで宗教に熱中して家業を顧みない、文哉の丁稚松はぼんやり、一輔のさんは気が利かない、和右の甥太兵衛はぼんくら、清五郎の西念坊は頼りない、それぞれの性根を明確に遣っている。
 その中で一人店中を切り回し日がな苛立っている伊右衛門女房。半兵衛の説得でお千代を戻すことを承知するが、自分の思いを通させるため半兵衛を脅す意地悪さを紋豊がコミカルに描く。だが半兵衛の心のひそかな決意に彼女は気づかない。打って変わってうきうきした足取りの千代、まめまめしく気遣う女房ぶり、一転して落胆、婆の脅迫、妻に去り状を渡す半兵衛のこの苦衷を描く勘十郎の見事さ。門口で待つ千代の痛ましさ。
 彼女にとって何よりも辛かったのは、最愛の夫から去れといわれる事だったに違いない。二人は死を覚悟して家をあとにする。

 ■解釈巡るインターネット上の議論

 「心中思ひの短夜」英大夫、呂勢大夫、貴大夫、呂茂大夫、希大夫、三味線は団七、喜一朗、龍聿、清丈、寛太郎。
 庚申参りの若い二人連れを配することで、この絶望の足取りがさらに深まる。夜といえど朝に近い明るさ、半兵衛の術懐に彼の半生の労苦が忍ばれ、お千代もこの世に居場所がない、その一つ一つが胸に迫り、「可愛やお腹に5月の、男か女か知らねども」に泣く。英大夫はお千代の嘆きをしっとりと情感をこめて、呂勢大夫は半兵衛の武士としての気概を示した。しっとりと、月の光が二人を見守るような、団七ら三味線陣の音色。
 さて、この「宵庚申」の解釈を巡って、インターネット上で興味深い議論が交わされた。それらを通して、この物語を通して近松が描こうとしているものにわれわれがどう迫れるかを考えさせられた。
 まず、伊右衛門女房が千代を姑去りにしたことの是非である。近松は実際に何故かを詳しく述べてはいない。要するに気に入らないということだ。しかし通常なら子供のできた嫁を姑去りにすることは、家の存続という封建時代の嫁に対する至上命令からすれば、あってはならないことである。実際にどの程度あったのかは知らないが、半兵衛の年齢から考えても、これは異常といえないだろうか。それを敢えてした姑は、なぜそれほどにお千代を嫌うのか。それはこの家が、生きる原理の異なる4人の他人同士であったという事実からくるのではないか。
 この姑の求めるものは利、お千代の求めるものは絆であったとはいえないだろうか。更にいえば、半兵衛は武士の出自の誇りである義を求め、主人伊右衛門は救いを求めたと。

 ■姑のいじわるさの原因は?

 半兵衛を養子に迎えていることから、姑に子供が授からなかったことがわかる。しかし彼女が甥の太兵衛を店に迎えながら後継者としなかったのは、商売の才を見てのことであろう。それなら、実直で腕も立つ半兵衛を養子にして商売を継がせる方が、店も安泰、自分たちの老後も安心、ついでに頼りない甥も任せられ、しかも他人に財産を継がせたということで、半兵衛は一生自分たちの言いなりになる、とそこまでの計算はしていただろうと思わせる。
 ただ、彼女は計算高いが甥を始め使用人に対しても、人への愛情というものが感じられない。もしかしたら嫁時代に子供が生まれないことでさんざんな嫁いびりを受けたためかもしれない。しかしたとえそうであったとしても、嫁に対して彼女は被害者から加害者になった。(こうした暴力の連鎖を生むことは家制度の最大の難点であると思う。)
 お千代はどちらかといえば、純粋で、人の裏を読むなどとできない、まるで少女のまま大人になったかのような女性である。人は成長すれば、他者の悪意に対抗する意思や知恵を身につけてゆくことが多いのに、彼女はある意味、汚れを知らぬまま大人になり、姑の悪意に抵抗するすべも持たない、否、彼女はまるで、水のように人の思いをそのまま受け入れて反射するかのようだ。だから彼女に対するとき、この姑は、自分に与えられなかったものを感じ、自分の悪意をそのまま映し出されるようで、たまらない思いになったのではないか。
 確かに千代は従順で逆らわない。3度目の嫁入りということでおそらくは持参金もかなりのものがあったのではと思われ、実家も裕福、商売上は願ってもない嫁である。しかしいざ同居してみると、自分とは全く逆のタイプで、ことごとく面白くない。
 千代は舅からはかわいがられたであろうし、半兵衛とはある意味、似た者夫婦であった。そして千代の懐妊を知ったとき、自分の居場所が危うい、また愛され、幸運に恵まれる千代に我慢がならない、その思いが爆発して、止めることができなくなったのではないか。彼女のしていることは、長期的に見れば明らかに自分の利益には反する。だが、そんな感情を抑えられなかったところに、彼女の弱さが感じられる。
 無論姑にも同情の余地はある。おそらく子供がいないという引け目の中で、最大限努力して商売に精を出したであろうことも。しかし彼女はいま、本来なら隠居して家督を譲っているはずなのに、あれこれと商売に口を出し、店を思いのままに切り回そうとする。どこまでも自分の思うとおり支配しようとする、それが若い時受けた仕打ちの復讐であるかのように。主人伊右衛門の宗教熱心も、もとはといえばこの女房と自分の親との対立からの逃避ではなかったかと想像できる。嫁と姑の対立で微妙な立場の夫は、しばしばそこから何かの口実を作って逃避する。また、いまの優しさも、その時に女房の味方をしてやれなかったという後ろめたさかもしれない。それで込み入った現世の問題に関わりたくないということでの宗教への傾倒が起ったのかも知れない。
 近松の人物配置の妙はここでも納得できる。

 ■半兵衛はアダルトチルドレン?

 さらに物語の中心となる半兵衛。彼は現在上演されなくなった上の巻などで、武士の子として生まれたが5歳で大阪に奉公に出され、八百屋の養子になったのが22歳のとき、それから16年後の物語である。
 彼は武士の子といっても腹違いの17歳も年下の弟に家督を継がれ、母とは別れ、ほとんど他人の中で人の顔色を見て生きなければならなかった。半兵衛がアダルトチルドレンであると評した人もある。
 またある人の説によれば、5歳まで母が「お前は武士の子だ」と言い聞かせて育ったのではないか、とも想像できる。それが納得できるほど、彼は武士としての誇りを支えとしている。それは一言で言えば、義を貫くということではないか。
 町人は利で動く。しかし武士は人の模範たるべく、仁義忠孝の道を通さねばならない。彼が不自然なほど義理の母に逆らわないのも、死にまで自己を追い詰めるのも、この義を立てるためである。
 商売の上では、逆に彼のような実直な人間は信頼を得て商売を成功させたに違いない。しかし義を求めることは、義理の母と嫁の父の二重の義理の板ばさみとなり、両方を立てるために夫婦での心中を決意することになる。彼も、自分を無条件に受け入れてくれる居場所がなかった。お千代も、自分の居場所、自分をよしとしてくれる人との絆を求めていた。その意味で二人は似た者同士であり、この理不尽とも思える心中行を止めることができなかった。
 一人ひとりは悪くない、といえばそれまでである。
 しかしこうした不条理を納得できるかといえば、あまりに胸につまされるところが多く、心中もののカタルシスは味わえない。なぜなら、一昔前まで、嫁の忍従、姑の意地悪の順送りという、悪しき現実が続いていたからだ。私自身もつい嫁の立場から見てしまい、お千代に感情移入してしまう。
 少なくとも、「宵庚申」の婆の嫁いびりは、無意識の悪意であり、相手を苦しめること自体が自己目的となっている。それは彼女の気が治まるという、客観的基準のない目標しかない。そして婆自身は、それが自分の中の秘めたる悪意であることに気づいていない。あるいは、それを改めて嫁と共存する方向を見いだそうとする意志が見られない。
 だから彼女のいじめは、最後まで「気に入らない」という自分の思いを通すだけのものになってしまう。さすがに半兵衛がお千代に離縁状を渡すところでは、その痛ましさ、自分がしたことの残酷さを、彼女は見ていられないかのように奥に引っ込み、念仏を唱えるが、それは彼女のわずかな心の慰め以上の客観的な和解への手立てを取るに至らない。
 どんな人間でも、自分の仕打ちで相手が苦しんでいるのを目の当たりにするときは、いささかの良心の痛みを感じる。だが彼女は、そのことで自分を改めることはしない。

 結果として、利を求めた彼女は、利を失い、面目を失った。おそらくは商売もこのような取り沙汰をされては、立ち行かなかっただろう。しかし義を求めた半兵衛は、そのために妻と子を殺し、絆を求めたお千代は、そのために生きることを断念した。救いを求めた伊右衛門は、最も救いから遠い現実に直面せざるを得なかった。
 近松の描いた世界のようは救いのないまま、一見、善が滅び悪が裁かれぬまま続いていくように思われる。それだけではなく、近松の悲劇は、そうした人間の本質を見据えているために、いまも私たちを魅了するのだと感じた。

粂 仙 人 吉 野 花 王

 第二部は「粂仙人吉野花王」の「吉野山の段」に始まる。
 英大夫がシンで、三輪大夫、津国大夫、南都大夫、文字栄大夫ら中堅の実力者が並び、靖大夫が末席。三味線は宗助を中心に、団吾、清馗、龍爾、清公と続き、華やかに瑞々しく揃う。

 ■仙人の誘惑、観客の誘惑

 この場は歌舞伎十八番「鳴神」の影響が大きく、花ますの詞はほとんど歌舞伎の雲の絶間姫と同じ。しかも詞が多く、大夫は三味線に頼れない形で、高音域の詞が続く、大夫泣かせといっても良いかもしれない。しかし英大夫には微塵も不安は感じられない。仙人を誘惑するとは観客もまた誘惑するのだ。その絶妙の間合い。
 三輪大夫の粂仙人、天下を狙うにしては実は隙があるとむしろ納得させる。花ますの誘惑に陥るところは歌舞伎との対比がおもしろい。大伴坊、安曇坊は津国大夫、南都大夫が十分に語る。人形では、簑二郎の大伴坊、勘緑の安曇坊が生き生きして楽しい。坊主というが煩悩に弱いところが愛嬌となっている。玉也の粂仙人は文七かしらを生かそうとする。色香に迷うところはもう少し出してもよいのではないか。勘十郎の花ます、こんな美女ならば、と納得させる出来。
 昼夜とも重い芝居が多いので、ほっとして楽しむことのできる一場である。

加 賀 見 山 旧 錦 絵

 また時代物の大作「加賀見山旧錦絵」が続く。
 「草履打」は岩藤を十九大夫、尾上を呂勢大夫、鷲の善六を新大夫、つばさ大夫、睦大夫が腰元。さすがに十九大夫がシンに座ると磐石、そして呂勢大夫の尾上が実に女らしく、いとしく、その悔しさが伝わってくる。
 尾上で観客を泣かせる、それは岩藤役の眼目だ。
 ここに十九大夫を配し富助が弾くという贅沢が、この物語の性根を作り出し、観客にも骨身に染みとおらせる。

 ■愁嘆場にもう一工夫

 「廊下」伊達大夫、清友。こうした場での人物の活写という点で、伊達大夫の力が十分発揮される。ここにしか出ない伯父弾正と岩藤の会話を通して、陰謀と策略、岩藤の性根が自然と伝わってくる。玉志も役の柄にはまる。ここではまだお初は初々しい。勘市、紋臣の腰元も気持ちを変えてくれる大事な働きをしっかりやってくれている。
 「長局」切、綱大夫、清二郎。この、草履で打たれたから死ぬ、という、現代人には異常に矜持高い行為を納得させる語り。尾上の使命感と戦い、その孤独の痛ましさ。人前で草履で打たれるという行為が、それほど面目を失わせるものだろうかと疑う余地もない。
 それをそれとなく労わり、諌めるお初との、心のやりとりの美しさ。二人が襖を隔ててそれぞれの思いで立ち働く、一人は主人を生かすために、もう一人は死ぬために。その対比の鮮やかさ、流れる時間の凝縮、この場面を弛緩なく語るとはどれほどの苦しみであろう。清二郎の糸もまた、その時間を支え、絶望にあえぐ尾上の心を描きだした。
 後、千歳大夫、清治。烏鳴きの不気味さから、文の内容を見て尾上の部屋にとって返すお初。そして長い前場で積もり積もった思いが爆発する。千歳大夫の大熱演、清治の糸の寸分狂わぬ迫力。
 だがあえていうなら、全体をフォルテッシモで叫んでは、お初の嘆きがかえって狂気の如くなってしまう。嘆きを爆発させる場でこそ、大夫には冷静なコントロールが必要なのではないかと思わされた。

 「奥庭」文字久大夫、清志郎。文字久大夫はこうした場を一人で語る力を備えつつある。ただこの場では、「猫股の、吠えるよりなほ恐ろしく」というような、悪の底強さ、ふてぶてしさを出せるようになってほしい。清志郎も敢えて望むなら、大団円に導く物語の奥行きを出せるようにと。忍び当馬の簑紫郎も動きがよい。紋豊の安田庄司は儲け役。
 玉女の岩藤は、悪としての性根の出し方がまだ弱いと思えるところがある。というより、「廊下」の伊達大夫ではその底意地の悪さが伝わってくるが、「奥庭」では最後にお初に討ち取られてカタルシス、というところまでいかなかった。場面によって、性根が十分出し切れていないところがあるのではないか。さらなる精進を期待したい。
 紋寿の尾上は、町人の出自ながら、自分の態度一つで国が動く重大な役割を担っている。その重さ、中老の格、それでいてしおれた風情がなんともいじらしい。
 和生のお初、尾上に仕えるひたむきさと愛らしさ、主君の仇を討つことを決意してからの気丈さ、立ち回りにも不安がない。彼らの示すものの確かさを受け止め、心熱く劇場を出た。

 ■桐竹小紋の引退

  もう一つの送る春がある。桐竹小紋の名が番付から消えた。80歳、現役の人形遣いとして最高齢であるが、私は彼の出遣いを見たことが無い。いつも黒衣で、ひっそりと舞台を勤めていた。戦前からの文楽の味わいを感じさせる、貴重な一人であった。
 去り行く人がいる。しかし若い芽は育っている。いな、育ててゆかねばならない。一回り大きくなった和生、勘十郎、玉女らは、もはやその次の世代を育てる使命が課せられている。
 英大夫にとっても、また他の中堅の大夫、三味線にとっても、技芸と精神の伝承におけるこの正念場を、まっすぐに受け止め、果たして行っていただきたいと心から願う。

カウント数(掲載、カウント07/5/5より)