見えないがもっと確実なもの――酒都で聴く素浄瑠璃「艶容女舞衣・酒屋の段」

森田美芽

■酒からの連想

 酒は人生の様々なステージを彩る。誕生、成長、結婚、別れ、死、その節目を飾る道具として用いられる。この物語が「酒屋」を舞台としているのは偶然ではない。そこに、人の世の不幸な出会いと別れ、絶えることのない絆と契りがある。
 悲劇でありながら、嘆きよりも静かな灯火のような希望を感じさせる。
 西宮、伝統の銘酒「白鷹」が時代に提供する新しい文化の営み、白鷹禄水苑・宮水ホールにおける「酒都で聴く素浄瑠璃の会・艶容女舞衣『酒屋の段』」を楽しんだ。豊竹英大夫と竹澤団七、進行役に河内厚郎夙川学院短大教授。

■酷な条件下 団七の一撥に助けられ

 春巡業の合間、急な寒の戻りといった酷な条件のせいか、英大夫の声も少し喉にかかるようで気になった。
 しかし団七の三味線の一撥は、上塩町の黄昏時、年寄りばかりの家、宵に訪れた不思議な女客の名残の風情を漂わせ、その場を立ち上げる。すると英大夫の声も、それに呼応するように語り始める。
 「これはこれは宗岸さま、そちらにいやるはお園ぎじゃないか」この一言で、半兵衛女房の人の良さ、やさしさ、思いやりが見て取れる。この物語に悪人は出て来ない(善右衛門が唯一の例外)、その世界の前提がすぐに目の前に広がる。
 宗岸と半兵衛、共に父としての思いが溢れる。お園のために頭を下げる宗岸、にべもなく断る半兵衛、宗岸の口から出る意外な真相、「久離切ったが誠でも、真実親子の肉縁は、切るに切られぬ血筋の親」。
 「おれもこなたほどはなけれども娘は可愛い、まして勘当はせぬ娘。愚痴なと人が笑はうがおりゃ可愛い、不憫にござる、可愛うござるはいのふ」という宗岸の気持ちが痛いほど伝わる。
 半兵衛もまた、お園を可愛いと思えばこそ、罪人の嫁にするわけにいかないと、「孝行にしてたもったが、今では結句恨めしい」という嘆きが加わる。
 この間、じっと言葉を発せず傍らにいる、半兵衛女房とお園。浄瑠璃は一人ひとりの気持ちを語ると共に、その場に居合わせる人物を無言で語る。そしてお園のくどき。

■多重な人の立場を同時に描き分ける芸

 ここから調子が高く、若い女性の音域になる。ここまではぐっと低い年寄りの男二人の調子、ここからはお園が前面に出てくる。
 先月の橘姫ほどではないが、確かに娘の華やぎと清らかさが聞こえる。「嫌われても夫の内、この家で死ねば後の世の、もしや契りの綱にも」がいともいじらしく、胸に迫ってくる。

 お通が出て、物語は急速に収束に向う。お通に託された書置きをお園が読む、半兵衛が、半七の善右衛門殺しを、口惜しがる。その言葉に重ねるように、「鴛の片羽のとぼとぼと」と、半七と三勝が姿を見せる。ここで浄瑠璃は、半七の手紙を読むお園、聞く宗岸、半兵衛、半兵衛女房、それとしられずに聞く三勝半七という、三重構造を作り出す。

■お園には見えたもの

 「未来は必ず夫婦にて候」と読んでお園は「ほんまのことでござんすかいな」と喜ぶ。それを聞いて宗岸は、「未来は未来ぢゃが、せめて一日なりとこの世で女夫にしてやりたいわい」と言う。
 この世では結ばれないことが明白なのに、なぜそれは希望と呼べるのだろう。英大夫はこれを、「来世を信じていたから」と語っていたが、私はそれだけではないと思う。たとえ肉体の交わりはなくとも、自分にとって過去も未来もない唯一の絆、それが与えられたからだ。
 この世で結ばれたかどうか、そんなことはごく一部のことに過ぎない。もっと深く、決定的につながりあえるということ、お園にはその絆が見えたのだ。三勝がいても、二人の間にお通がいても、自分と半七の間に揺ぎない絆が。

 今の感覚からすれば、それはごまかしかもしれないし、男にとって都合のいい女ということになるかもしれない。だが、人を結びつけるものは、そんなものに捉われない、もっと深いもの、それをこそ縁(えにし)というのかもしれない。キリスト教の感覚では、まさしく愛の絆である。
 それは、人から愛されたからではなく、また自己満足のためでもない、ただひたすら相手を思い、相手のためにあるというだけで満足する、たとえこの世でその実を見ることがなくとも、永遠はそのために真の報いを用意しているのだと。
 英大夫はこのお園をゆるしの愛と見る。それは甘やかしではない、自分を犠牲にしても、相手を生かすことを第一としたときにだけ成立する愛である。

■水と米が熟成する確かさのように

 段切れ、「駆け入らんにも関の戸に、空音もならず羽抜鳥。親は外面に血の涙。子は安方の安からぬ、悲しさ迫る内と外、一度にわっと湧き出づる涙浪花江泉川・・・」の激しさ、見返り、見返りしてゆく半七と三勝の後姿、
 「大和五条の茜染」でまるでカメラを引きながら遠景を見せていくように、見事に物語世界をその背景に位置づけてゆく。
 一時間はあっという間、そしてその密度の高さ、一人ひとりの詞の中にこめられた思いの密度が胸を打った。
 それを引き出した団七の三味線の見事さ。音色や技術だけではない、大夫の語るべきことを引き出す、その物語に沿って世界を作り出す、何よりも深い情の香り高い糸。そして英大夫の語りの、こめられた情の深さ、「酒屋」の世界をそのままに現代に映して、少しの違和感も感じさせなかった。
 この時間の深さを、しみじみと感じた。

 過去に2回、英大夫の「酒屋」を聞いている。また義太夫教室で口移しで教わるという経験もした。だが今日の素浄瑠璃は、それらを積み重ねた上に、さらに英大夫自身の充実が加わって、自然に成熟したものであった。
 丁度極上の水と米が樽に寝かされて熟成するように。だがそれは時間がたって勝手にそうなったというより、かれ自身が生きてきたその時間の重みが、無意識に説得力となって迫ってきたように思う。
 このような世話物ではなおさら、自然な「情」が紡ぎだされるのは、時間や意志的な訓練だけではない、何かが必要なのだ。その何かが、ただの水と米を極上の酒に変えるように、人生の試練や困難だけではない何かが、いま、彼の中に働いて、人を酔わせる浄瑠璃を生み出すようにしているのではないだろうか、と強く思わされた。

■企画者の見識

 この企画を進められた、白鷹禄水苑の辰馬朱満子氏、いつもながら深い見識と幅広い芸能の知識でこの舞台を進められた河内厚郎氏に、この地で、この場所で、この素晴らしい伝統の上に成り立つ人の営みを支える、優れた手腕と先駆者の働きに対し、心からの感謝と拍手を送りたい。

カウント数(掲載、カウント07/3/19より)