旬(とき)を見る、瞬間(とき)を聞く――2006年11月公演

森田 美芽

「しかしあえて言うなら、この10年は、
玉男が次代に受け継ぐ備えの時としていたのではないか」

「どなたにも勧めたいことだが、
いま、見るべきものを世評にとらわれず、各自自身の目で見つけること」(玉男師匠を偲びつつ)

 錦秋という言葉がすぐそのままある、それは舞台に咲き誇る芸の花でもある。春の桜の惑わせる華やぎではなく、凛とした冷気の中に、確かな実をこの手にする、ずっしりとした感触の11月公演である。
 そして吉田玉男の名のない劇場。寂しいというより、それを真正面から受け止めざるを得ない状況になってしまった。しかしそれを乗り越えていこうとする、彼らの強い意志とその力のみなぎる舞台に、それぞれの旬を見る時となった。

 14年ぶりの「岡崎」を中心とした『伊賀越道中双六』の半通し。
 「藤川新関引抜き団子売」伊達大夫、松香大夫、つばさ大夫、呂茂大夫、希大夫(後半靖大夫)、三味線清友、喜一朗、清馗、龍聿、龍爾。
 伊達大夫を聞く楽しさ。この人の浄瑠璃は、いつも血が通う人間の暖かさを感じる。卑俗なものは卑俗なままに、それを人間の一面と肯定できる暖かさ。そして茶尽くしの耳当たりのよいこと。勘緑の助平も、この場の中心となる楽しい仕草、しつこくならずに笑わせる。
 和田志津馬を松香大夫、志津馬の若さと未熟さも苦にならないベテランの頼もしさ。和生の志津馬はこの仇討劇の主人公のはずだが、小狡さを感じる色男。娘お袖、つばさ大夫は長足の進歩。玉英には恋には積極的な娘の典型。役柄からすれば、お光とお里の中間、美しく可憐だが、もう少し積極性を出す方法もあるかもしれない。もっともこの場はお谷が女主人公だから、正解ではあると思う。この人らしい、出過ぎない品位を保つ。
 引抜きで「団子売」。ツレが加わり、単独で出る時よりも楽しさが増す。幸助の杵造、手足が長いので大らかさがユーモラスに映る。清三郎のお臼も「よい夫婦」。

 「竹藪の段」相子大夫、清丈。きっぱりとした声と音。もう少し厚みが加わればどんなに人物の底音を響かせるようになるだろう。
 玉輝の股五郎、亀次の林左衛門、玉志の眼八、それぞれの人物を端的に見せながら関を通り過ぎていく。そして、満を持しての玉女の政右衛門。竹藪を抜けていく、細の忍び三重を効かせ、闇の中を隠れ忍んでいく政右衛門の決意を見る。

 「岡崎の段」
 中、「相合傘」とも呼ばれる箇所を三輪大夫、清志郎。「いとし殿御を三河の沢よ、恋の掛橋杜若」と、三輪大夫のはんなりとした浄瑠璃のお袖と志津馬の色模様を描く、清志郎の手のはっとするような華やぎ。
 目にも楽しい若者同士の恋、これも底意のあることと、幸兵衛女房も含めて、さりげない中にも含みを持たせる。簑二郎の婆は人の良さだけではない。

 次、英大夫、宗助。お袖、眼八、幸兵衛、志津馬、幸兵衛女房、それぞれの思惑を胸に、表面はなごやかでややエロチックな場面。
 眼八の野卑、幸兵衛の、もとは武士の気概と体術の冴え、抜け目ない目使いに見る性根と志津馬の機転、娘の幸運を喜ぶ母の笑み、それでもどこに話が展開するかまだ見えない不安さ、次の切場への見事な備え。
 切、綱大夫、清二郎。政右衛門の登場。幸兵衛に危機を救われ、師弟の思いがけない再会。別れて15年の月日が、師弟を敵味方に別った。親ともいえる立場の師に、全てを打ち明けることができない。幸兵衛もまた、弟子を義理のため利用せざるを得ない。互いの心底を見極めようと肚を探りあう、その緊迫。婆と二人、煙草を刻む仕草と間。
 そこへお谷の出。この女が、どんな思いでここまでたどり着いたか、そこに夫がいるとも知らず、雪の中、疲れと癪のため、もう一歩も動けない。しかも夫はその妻を大義のためとて雪の中にむしろ一枚で放棄し、あげく一人息子を刺し殺す。許されることではないが、政右衛門の苦衷、お谷の哀れ、紋寿の芸の蓄積が光る。
 盆が回って十九大夫、富助。物語の意味を一つ一つ解き明かすように、互いの本音が子どもの犠牲のうえに出てくる。動かずして幸兵衛の人物を描くのはやはり文雀の力。

 「伊賀上野敵討の段」南都大夫、新大夫、津国大夫、芳穂大夫、希大夫、団吾。気持ちよい段切れにしてくれた。和右の孫八、玉佳の武助、文哉・玉勢の昵近侍、生き生きと動く。
 この芝居の眼目はやはり玉女の政右衛門であろうか。出の瞬間に「大きさ」を感じさせる。品あり肚ある見事な立役。座頭の格、立役肚、文七かしらの性根を見事に玉男から受け継いだと思わせる遣い振りであった。

 「紅葉狩」花を競う中堅二人を中心とした見事な舞台。
 春の千本桜・吉野山の道行と対比される錦秋の信濃路・戸隠山。勘弥の平惟茂、藤色の狩衣が映え、検非違使首に強さと思慮、意志の強さを感じさせる。
 清之助の更科姫。深窓の姫という言葉が、これ以上ふさわしい人はいない。腰元に手をとられ出てくる恥じらい、惟茂に迫る大胆。琴の音に合わせ、舞うあでやかさ。二枚扇の鮮やかさ。少しの乱れもなく、気高く美しい。前半の肩衣の美しいこと、後半は着付・袴まで変えて鬼女の性根。この姿にもこの舞台に賭ける彼の思いが伝わる。
 7年前、故一暢の左を遣った時、この人の主遣いが目に浮かんだ。
 それがいま現実に目前にある。あの時足を遣った一輔は、左遣いとしてこの人の自在な動きに見事に合わせる。足は紋吉、品ある形を整える。三人の呼吸もぴったり。後半の鬼女の動きの大きさと力強さ、松には飛び上がる風情。これは一暢の時にはなかったと思う。舞台の工夫とそれを支える力の見事な融合。
 清五郎の山神。力強く、鬼若の首を生かす動き。簑紫郎の侍女の存在感、紋秀のお福かしらは師匠ゆずり。
 津駒大夫の能がかり、咲甫大夫の伸びやかさと若々しさ、始大夫の一本気、貴大夫、文字栄大夫は今回腰元でのバランスを取る。三味線は寛治がシンとなって艶麗なるアンサンブル。
 二枚目は清志郎、咲甫大夫との相性のよさ。三枚目の清馗の手強さ、山神の足拍子の心地よさ。龍聿と寛太郎の琴の音の美しいこと。うっとりとその美しさに身を委ねることのできる至福の時間を十二分に味わえた舞台であった。

 大阪で6年ぶりの「心中天網島」。その美しさと共に難しさも強く感じた。一つは脚本の問題もあろうが、治兵衛の人物像や孫右衛門の性格が一貫していないところがあるし、わかりにくい状況説明がある。しかし劇全体として見るなら、やはり義理と恋の葛藤が、胸に迫る。

 「北新地河庄の段」
 中、千歳大夫、清治。夜の新地の賑わい、小春の置かれた状況説明、太兵衛と善六の口三味線とテンポよく語り分ける。千歳大夫はこうした人物造形が巧み。清治の音のうちに遙かな時の揺曳を聞く。紋豊の太兵衛と文司の善六の掛け合いはさすが。
 切、住大夫、錦糸。「天満に年ふる千早振る」というマクラから、治兵衛小春の思いのやるせなさが、曽根崎の夜の深さに響く。治兵衛のふわふわとした足取り、心ここになきかのごとき頼りなさ、そこまで恋の闇路に足を踏み込んだ男の裏表。
 しかしこの人の眼目は、やはり孫右衛門。その説得に心揺さぶられる。「コレ、擲かれうが蹴られうが、そこをぢっと辛抱せずば、この状の客への義理が立つまい」の、表に言われぬ義理のやるせなさ、小春にとってなんと酷いことか。この人の「老木の花」は、人の思い通わせる詞にあると思った。錦糸の糸は小春の心根の美しさに呼応する。
 「天満紙屋内の段」
 中、文字久大夫、喜一朗。文字久大夫はおさんと使用人たちのやりとりなどうまく聞かせるが、ここの孫右衛門が「河庄」と異なるように見える。喜一朗は明快さと共にしっとりした情の通う三味線になってきた。
 奥、嶋大夫にかわり千歳大夫、清介。
 この段の難しさがそのまま出た。千歳大夫は代役としてはよくやっていると思う。しかし余裕がない。人物を描く間に太夫自身の生地の顔がふと見えてしまう。特に女の声と心情、おさんの「女子同士の義理」が何故か迫ってきにくい。人物の自然な性根をどのように聞かせるか、正念場であると思った。清介は、「着物づくし」などたっぷりと聴かせてくれる。

 「大和屋の段」咲大夫、錦糸。咲大夫は深閑とした夜の冷たさ、闇の重さ、その中に響くそれぞれの思いを聞かせる。
 ただ、死に向おうとする心根が、治兵衛の身のうちから迫ってくる。燕三の気迫は隅々まで行渡る呼吸のように、この夜の広がりに呼応して、切ない二人の、案じる孫右衛門の思いを裏打ちする。新地の夜でも灯の消えた時間の風情、しっとりとした、魅惑的な浄瑠璃。三五郎の笑いがわずかな救い。

 「道行名残の橋づくし」呂勢大夫、新大夫、睦大夫、靖大夫、久方ぶりの咲寿大夫、団七、団吾、清丈、龍爾、清公が並ぶ。
 美声と勢いを団七がまとめる。団吾が新大夫を生かして手強いところを聞かせる。咲寿大夫はいつの間にか、少年から大人の男として、芸に生きる者の顔を見せるようになった。しっかりと届く声。
 人形では、まず勘十郎の治兵衛。三十にかかりながら、ふわふわとたよりない上方の男、それも小春への、おさんへの甘えを感じさせる、むしろ甘さ、青々しさともいうべき巧みな人物造形はやはりこの人。
 それに対する和生の小春は愛する男だけを思う女の芯の強さを感じさせる演技で、それを簑助のおさんが、いぶし銀の演技で引き締まった舞台にしていた。しとやかで、芯が強く、しかし夫への思いに溢れるその情の姿、夫婦愛の美しさ。文吾の孫右衛門、その説得力と情、これに動かされなければ。
 紋豊の多兵衛、敵役だがむしろコミカルな味わいも。文司の善六、はやしたてるお調子者の性根。簑二郎の花車、しっとりといい味わい。和右の朋輩女郎、小春と対照的によく動く。下女子、清五郎。愛らしく調子がよい。
 玉佳の河庄亭主、わずかの間にも存在感。三五郎は簑一郎、チャリが本役になってきた。清三郎のお玉、わきをきっちりと締める。勘弥のおさんの母、娘を思う優しさと善良さ。玉也の舅五左衛門、「にべもない昔人」そのまま。

 今回はこれまで以上に、中堅の充実と、簡単には追随を許させないベテラン陣の意地を見た。しかし、世代交代の時期に来ていることは意識せざるを得なかった。
 吉田玉男を失ったことは痛手であるし、寂しい限りである。しかしあえて言うなら、この10年は、玉男が次代に受け継ぐ備えの時としていたのではないか。そしてその通りに、玉女は見事な立役となり、末弟の玉翔、玉誉に到るまで、しっかりとした規律の下に修行を積ませた。
 そして自分に委ねられていたものを次第に手放し、弟子たちの世代に託し、自らは静かに身を引いて去っていった。

 それは我々全てが学ぶべき人生最後の幕引きの手本かもしれないと思った。
 だが、さらにいえば、晩年の数年の舞台は苦しかったに違いない。若き日の、少なくとも5年くらい前までの玉男を見ていれば、それは幸福というべきだ。やはり昔に比べ長命であったとしても、技芸員それぞれに、盛りの時、花の旬はある。この公演で、その旬を感じさせたのは、勘十郎や玉女、和生や清之助であったが、同時に簑助や文雀や文吾や紋寿が、その年齢にふさわしい花をまた咲かせていることは驚くべきであろう。
 この芸は、極めようとする者は、生涯にわたる花を咲かせることができるのだ。

 だからどなたにも勧めたいことだが、いま、見るべきものを世評にとらわれず、各自自身の目で見つけること、そのためにも、コンスタントに、一定期間文楽を見続けていただきたい、と願わずにはおれない。
 彼らの見るべき時はすぐ手元にある。手を伸ばすか伸ばさないか、それだけだ。時に遭う、その惠みはずっとあとでわかるようになり、それはその人の生涯の宝となるのだから。

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