一粒の麦死なずば――「なかなか あえない 芸能―琵琶楽、能楽、文楽」

森田 美芽

 極上の時間、といえば平凡にすぎるかもしれない。だがそれ以外にどう形容してよいだろう。梅雨の中休みの暑気の6月28日、「なかなか、あえない芸能―琵琶楽、能楽、文楽」の第三夜、ようやく時を得て赴いたその先に、待っていたのは都市の中での大人のための極上の時間。

■舞台空間作りのイキさ
 中津にある東放エンターテイメントスクール大阪校の小劇場、クロスロード梅田。無機質のコンクリートの壁に壁面と幕、そうした前衛的な小空間に現れたのは、古典の持つ力の競演。豊竹英大夫、竹沢団吾の素浄瑠璃と奥村旭翠師の筑前琵琶という組み合わせ。
 目にも涼やかな黒地の絽の肩衣、白の被布に映える琵琶の赤。ほんのりとした行灯の光(これまた表面に英字新聞というのがこっている。日本語だと意味が邪魔するが、英字だと記号になり邪魔にならない)藍染のタペストリ、そして背景は伴野久美子氏の気合の作品。赤と緑、黄と青、互いに相容れない補色同士で、しかもその地色には相手の色が透けて見え、さらに深く底で交じり合い、また表面に散って互いを主張する。ここには、伴野氏の、異なるジャンルの芸能同士の自立性と、底流で深く結びつきあっていること、いまも互いに無意識のうちに影響し合っていること、その力の拮抗があることの主張がこめられていたと思った。まずはこの空間の演出の粋が伝わる。

■音・声の競艶に引き込まれ
西域の響き、観客交流の楽しみも
 まずは素浄瑠璃『日高川入相花王』「渡し場の段」これを素浄瑠璃で聞くと、短いながら、どれほど起伏に富んだ、ドラマチックな場面かよく分かる。音域は高音部が中心、その合間に船頭の低音が入り、娘心の切なさと一途さ、船頭の世慣れた非情が対比される。そして三味線の手強さ、迫り。普段は700名を相手にする劇場で弾く力で、50名余りの、舞台から1メートルの至近距離でその音を浴びせられるのだ。圧倒的なその力にねじ伏せられ、その音と声の競艶に引き込まれる。  奥村旭翠師の「文覚発心」。義太夫の三味線とは打って変わって、西域からの音を思わせるある種のエキゾチックさをもたたえて、繊細美麗なその音色は、こうした小空間でこそ味わえる。そして叫ぶことなく、切々と語るその語りは、「艶なり」という形容こそつきづきしい。義太夫に比べ、流儀としての歴史は新しいものの、その底流に深く、「語り」「くどき」の伝統が流れていて、しかも、旋律のなかにはっとするようなモダンな響きも感じられ、「女の情念」というおどろおどろしさよりも、むしろ抑えた、淡々とした語りの中に潜む思いの力。

 そして英大夫、団吾の「すしや」。いがみの権太が若葉の内侍と六代君を引き渡したところから。父弥左衛門の刃にかかり、モドリの場面の血を吐くようなくどき。そして体を貫く一撃。
 この日の彼の声が、その一瞬に凝縮された。
 権太と弥左衛門の、親子なるが故の悲劇、その痛ましさは、さらにこのあと権太の犠牲が無駄であったことで一層深められる。その予兆を残して語りは閉じられる。願わくはこの一段が終わりまで聞きたかったのは私一人ではなかっただろう。終わることが惜しい、否、時がそこに止まっていると思いたくなった、それほど濃密な時間と空間であった。それが解き放たれ、カーテンコールとなると、日常の時間が戻ったようで、ほっとした。

 そして極上のワインとたこ梅のおでん、出演者を囲んで、楽しい歓談のときが始まる。粋を解する、趣味高い人たちとの、同じ時空を共有した楽しみを分かち合う楽しさ。至れり尽くせりの「大人の時間」を作り出した功績は、まず出演者の力演、そしてプロデュースの伴野久美子氏、さらに場を提供してくださった東放エンターテイメントスクール大阪校、その場に集まった人々の一人ひとり。

■「聞くこと」は熱愛を受けるに等し
 こんな幸福な時をすごしながら、私にはもう一つのことが頭から離れなかった。
 どんなものでも、舞台を見ていると、周囲の観客が消えて、まるで自分と演者だけが対峙し合っているような錯覚を覚える。
 誰のためでもない、この私に向けられた声、音、気。今回、それを痛切に感じた。
 先ごろ亡くなった清岡卓行ではないが、「見ることはかすかに愛すること」なら、「聞くこと」は熱愛を受け取ることにも等しいのだ。声は身体性を持つ。活字と決定的に異なるその言葉は、「肉体をもち」、「言葉に命があった」といわれるように、命をもって語られた言葉は、私たちの身体深く、その意味と音を受肉させ、何か、もっと深い、私たち自身にもわからない何かに向けて始動させる、いな、それはもう始まっている。そうとしかいえない何かがある。

 ちょうど蒔かれた一粒の種が、地に落ちて多くの実りを結ぶように、私たちの内に蒔かれたその言葉の命がそれぞれの心で命を得て新たな実りとなるものを作り出していく。蒔かれた種は死ななければ実りを作り出すことはできない。
 私たちはそこに命がこめられているからこそ、それを受け取って新たな創造へと向いうるのだ。
 舞台には魔力がある。何度も見たくなる、というのもそうだが、人を何かに駆り立て、『乱れそめにし我ならなくに』といわずにおれなくなる、そんな力が。

■「男」の本質の魅力を発見し
至福の空間に感謝した
 もう一つは、義太夫は「男」の芸であること。女義太夫を否定するのでなく、その本質において、男性の力と本質を表現している。今回の英大夫の語りは、まさにそれだった。
 自らの力を正確に把握し、場に応じてそれを使い、周囲を立てつつ周囲に配慮してリーダーシップを発揮し、見事な舞台を内外に向けて作り出す。そのために言い訳もしないし、自分を飾ることもない。
 ただその成果を通じて、本物とは何かを圧倒的に事実として示し続けるのだ。それが芸に生きる者の「仕事」であることを感じた。
 語りながら、彼の額にも襟元にも汗が光る。力を出し惜しんで語れる芸ではない。命がけの、精魂こめた語り。だからこそ感動が生まれ、人を動かす。
 その中に生まれる極上のものを引き出し、多くの人に伝えようとする試みの尊さと、それに触れる喜び。

   大人の娯楽、というには畏れ多い。私たちはいつも、その最上の命の種子を受け取っているのだから。都市のただ中にかくも至福の空間を作り出すことに成功した伴野氏はじめ関係の皆様に心よりお礼を申し上げます。

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