豊饒の夏―2004年夏公演に寄せて―

森田美芽

 5月の東京公演が終わると、文楽はしばし、若手の研鑽の時を迎える。中堅、若手による 6月鑑賞教室、若手会、南座公演、さらに技芸員たちの個人的な活動など、短い期間に多忙 な充実の時である。
 鑑賞教室では、中堅クラスの実力と内容を、さらに彼らがいま、力を 尽くしても越えることの困難な「寺子屋」の壁を見た。それでもひたむきに力を出し尽く そうとする若手会での真摯な姿勢に打たれた。それらの積み重ねの上に、彼らの芸の深ま りを共にできるという期待のうちに、夏公演を迎えた。

 第一部「文楽はおもしろい」人形解説と体験コーナーを、勘市と一輔が交替で勤める。 筆者が見たのは一輔のだけであるが、興味深く聞かせる力を持っている。体験コーナーで はあちこちで子どもたちの手が上がる。その真剣さや素直さから、やはりこうした経験は、 子どもの時こそ重要だと思わされる。
 ただ太夫・三味線の聞き所やおもしろさ、メリヤス などの簡単な説明もほしかった。一言でいい、太夫や三味線が生易しい仕事でないと感じ てくれるような何かを伝えてほしい。

「西遊記・完結編」
 こうした新作を批判的に見る向きもあると聞く。だがこの作品は、ここ何年かで見る中 でも良い成果を残したと言える。
 まず、人形陣の大健闘。勘十郎の孫悟空が生き生きと活躍している。簑二郎の銀角との 対決など、目を離せない迫力で、宙乗りも飽きさせない。
 玉女の三蔵(紋豊代役)は静か な貫禄。嵐の中で三蔵をかばう孫悟空に、勘十郎と玉女の無言の信頼関係を感じたのは筆 者だけではあるまい。それに清之助の羅刹女、簑二郎の銀角、文司の猪八戒、勘弥の沙悟 浄、勘緑の牛魔王らがからむ。そのバランスのよさ、互いを生かしあう実力伯仲、それぞ れが持ち味を発揮した。
 サングラスをさせたり、帽子をしてみたり、アイスキャンデーを 頭にのせたりと、自然に観客に笑いを誘う場面もある。芭蕉扇を特大にして出すのもうま い演出であると思う。

 床は「一つ家の段」伊達大夫、清友。「流沙川の段」松香大夫、宗助。「火炎山より芭蕉 洞の段」英大夫、団七。「祇園精舎の段」文字久大夫、新大夫、つばさ大夫、芳穂大夫、弥 三郎、清志郎、龍聿、龍爾。
 初め、もう少し若手に任せた方が良かったのではとも思ったが、伊達大夫や松香大夫が ベテランの味わいを出した。のみならず、彼らの語り口を通して、子どもたちに訴えるも のがあると思った。彼らはその語り、リズム、音使いを通して、隅々まで義太夫の響き、 味わいというものを自然に感じさせる。
 おそらく子どもたちの大半は、父や祖父からこの ように力強く人間性を感じさせる昔語りを聞いていないのではないか。彼らはその伝えら れた言葉だけがもつ独特のぬくもり、懐かしさを持つ豊かな大阪弁の物語を、伊達大夫や 松香大夫の語りの節々に、また清友や宗助の三味線のなかに感じたのではないだろうか。
 無論、聞いてすぐわかるというのは無理であろうが、そうした本物に触れることで、これ から何十年か先、そのリズムや節や言葉の主調低音が、彼らの心の無意識の層に残ってい くのではないだろうかと思われた。
 英大夫はやはり入れ事がうまいが、子どもたちがいつ か、この面白さが単なる口先のものでないことに気づいてほしい。いまは時を重ねた芸と いうもの重みが不当に軽んじられている時代だから。団七の三味線のさりげない確かさと 響きの豊かさも。
 文字久大夫、新大夫らも力強くしめくくる。
 最後の祇園精舎の場面のな んと美しいこと。子供たちが思わず手を出して降りしきる金のかけらを集めようとする。
 その幻想的な中を孫悟空や三蔵たちが客席に降りてきて、握手をし、手ぬぐいを撒く。子 供たちも大人も、最後まで動こうとしない。これほど客席と舞台が一体になった雰囲気を 初めて見た気がする。
 無論古典の作品とは違う、観客もいわゆる見巧者の人はむしろ少な い。むしろ文楽とはこういうもの、という先入観がないだけ、次に何が起こるかわからな い舞台をわくわくしながら見入り、そこに入りこんでいる。少しわかりにくい部分があっ ても、だれるということがない。このテンポを作り上げたのは今回の功績であろう。
 この 数年の積み重ねとその都度の反省と改善が実を結び、今回の形になったといえよう。
 何よ り、中堅・若手が中心となって力を尽くしたことで、これだけの舞台ができるのだ。その 彼らのいまを見、聞いてほしいと思った。
 ただ、どうしても人形中心になり、効果音などで床の大夫の声や三味線のメリヤスが聞 きにくかったのは残念である。あと、スモークの多用は舞台の彼らにも床にも良くないの ではないか。これらはぜひ改善してほしい。

 第二部、「生写朝顔話」
 「宇治川蛍狩りの段」掛け合いで、阿曾次郎の三輪大夫、深雪の心を捉えるに十分な色男 ぶり。深雪の呂勢大夫、武家の娘の誇りと熱情。僧月心の津国大夫、やや年かさに聞こえ るが実直な人柄。浅香を南都大夫、単なる腰元ではない、深雪の思いを伝え、かなえよう とするもう1人の深雪。この浅香との関係が、幕切れの徳右衛門の切腹につながることを 理解させる。
 浪人を文字栄大夫、始大夫、勢いと憎まれ役のうまさ。奴鹿内を相子大夫、 印象的。
 三味線は宗助、全体の劇的起伏を理解させる運び。
 夏の宵、宇治川の川辺、蛍のほのかな光、恋は一瞬で始まる。悪者から助けられ、偶然 は運命となる。そして由無い別れ。会えないことによって深雪の思いは決定的となる。
 男 は家を、それに象徴される社会的な立場を重んじざるを得ない。
 だが女には自分の思いだ かがすべてなのだ。この食い違いが、深雪のストーカー的な情熱となることを、その美し い場面と人物の中に感じさせる出来であった。

「明石浦船別れの段」嶋大夫、清介、琴清丈。
 運命は悲劇となる。「わだつみの浪の面照る月影も・・」海原での思いがけない再会と別 れ。チャンスの精は前髪だけというけれど、いまがその時であるとどうして知られよう。
 一瞬のためらい、この「一度」の重さを伝える嶋大夫と清介。

 「嶋田宿笑い薬の段」中、文字久大夫、喜一朗。次、咲大夫、燕二郎。文字久大夫は人 物の語り分けの呼吸がよい。
 幕開きの下女と松兵衛のやりとりが楽しい。
 咲大夫の熱演に は細部まで計算された義太夫の呼吸がある。燕二郎もまた義太夫の呼吸に忠実に弾く。こ のやり取りの迫力、うまさ。
 それに合わせて紋寿が遣う萩の祐仙、理屈ぬきに笑いが、二 度、三度と波のように押し寄せる。三業が一体となった面白さである。陰の高音に龍聿。

 「宿屋の段」住大夫、錦糸、琴清志郎。
 戎屋徳右衛門が主調低音をなす語り、どことなく「沼津」の平作を思わせる、へりくだ った詞の調子に、もと武士の位と宿屋の主の風格をのぞかせる。
 錦糸の一撥で朝顔の哀れ さが深く胸に染み入る。清志郎の琴はいつも、劇中の琴が持つ意味を静かに語っている。 その風情のよさ。

  「大井川の段」津駒大夫、寛治。
 津駒大夫らしい熱演。深雪の嘆き、川の向こうへ届けとばかりに。寛治はむしろ淡々と その成り行きを見守るような温かさを感じる糸。
 しかしこの、深雪の詞のなかでなぜ彼女 が零落の身を島田に置くのか、浅香と徳右衛門の関係、それらをすぐに納得するのはむず かしい。
 まして深雪の目を治すため、徳右衛門が切腹する理由もこの一息では難しかろう。
 人形では簑助の深雪、零落してもどこまでも武家の娘と一目でわかる。困難や逆境に遭 えば遭うほどに思いを燃やす。彼女の論理は明快だ。
 それに引き換え、玉女の阿曾次郎は、 義理の重さと恋人に手を伸ばしてやれない悔しさに唇をかみ締める、色男ぶりのなかの誠 実さを感じる。
 玉也の岩代多喜太、敵役の本領発揮。勘十郎代役の戎屋徳右衛門、父性の 確かさ。玉英の浅香、行儀良い。紋吉の船頭は、いい味わいがある。簑一郎のお鍋、愛嬌 あり。紋秀の小よし、動きがきびきびしている。玉佳の松兵衛、ゆったりとおおらか。玉 志の奴関助の実直さ等が印象に残る。

第三部「一谷嫩軍記」「きぬたと大文字」
 「熊谷桜の段」千歳大夫、清治。
 千歳大夫は相模と藤の方のやりとりがよい。特に藤の方 が相模の夫が自分の息子を討った熊谷と知ってからの変わりなどは有無をいわせぬ説得力 がある。
 しかし梶原や弥陀六が出てくると、低音がかすれて聞き苦しくなる。やはり千歳 大夫には、浄瑠璃が前より自然になってきているだけに、声の使い方はぜひ体得してほし い。清治の糸の確かさが彼を前進させているのだから。

「熊谷陣屋の段」前、綱大夫、清二郎。後、十九大夫、富助。
 この組み合わせ以外は考え られない。
 だが、千穐楽、綱大夫の「熊谷の物語」のくだりはやや苦しさが聞こえた。清 二郎は迫力十分。十九大夫の相模のくどき、弥陀六の嘆きはじんと響いた。富助は変幻自 在。
 人形では文吾の熊谷が、父の苦悩と憂いを隠す悲運の武将の魅力を見せた。文吾の熊谷 で印象的なのは、登場のとき、そっと数珠を隠すような仕草、息子を気遣う妻に答えなが ら妻に覚悟を迫る箇所、「十六年もひとむかし」の眼差しである。
 泣くことのできない熊谷 の涙を感じた。文雀の相模、無論武家の奥方の品位と母親の情愛は十分、特に後半、息子 を失う悲しみが、実は自分の息子と気づき藤の方と立場が逆転してからの嘆きの見事さ。
 和生の藤の方、高貴の女性が知らず知らず人を傷つけるところまで表現する。幸助の堤軍 次、品良く忠節の心篤き折り目正しい武士。清五郎の梶原平次、性根の悪さを巧みに出し た。
 玉輝の義経、貫禄十分。そして玉男の弥陀六、あまりのさりげなさに、この人が85歳 の最長老であることを忘れる。寸分の無駄もない動き、平家の一員でありながら、自分の 仕業で平家を窮地に陥れた嘆き、彼の刻む石塔が、因果の身の嘆きとせめてもの供養であ ることを思う。

 「きぬたと大文字」最後にしっとりと夏の詩情と秋風の立つ風情を残して終わる。
 「大文字」の舞妓は和右と清三郎、和右ははんなりと愛らしく、清三郎は姉らしく少し妖 しささえ感じさせる。指先まで丁寧に決まる。
 京の大文字は盆に帰ってくる先祖の霊を再 び送る火。これが終わるともはや秋である。

 「きぬた」の砧の女、風の音、虫の声、夫を思い砧を打つ女。夫はどこにいるのか、無 事なのか、それすら知れない。ふと世阿弥の「砧」を思い出した。
 しかし清之助の砧の女 は、閨怨のようなどろどろした情念ではなく、ひとり風の中に残されたすさまじいまでの 孤独を感じた。
 床は呂勢大夫、咲甫大夫、睦大夫、呂茂大夫に、初舞台の希大夫と靖大夫。
 美声の先輩 たちに精一杯ついていこうとする彼らの前途に祝福を祈る。
 三味線は喜左衛門が団吾、清 馗、清丈、寛太郎らを率いて夏の終わりの風情を紡ぎ出した。

 千穐楽に初めて気づいた。この三部の主題は鎮魂であると。それでこそ八月にふさわし い。
 盛夏の中に秋を、衰えゆくもののはかなさを思う。
 私たちはいつも、滅びに向かって ゆくものにほかならないと。
 だが、この、理性を失うほどの、くらくらと意識の奥から抑 圧してきた思いと情念を見出させる、死と隣り合わせの暑さを超えていくことなしには、 秋の豊かな実りを生み出すことは出来ないのだ。
 その意味でこの夏の文楽の主題は、あま りにも季節の重みと重なっていた。
 第一部の「創造への意欲」第二部の「夏の恋」第三部 の「鎮魂」と。いくつも巡ってきたこの季節に、帰らぬ人々とそのなしえたところを思い つつ、いま、彼らが自分の生きているという幸運と使命を発見することができるようにと 願う。

 実りの月である十一月に、彼らはそこに何を生み出すことができるだろうか。
 「仮名手本忠 臣蔵」に思いをはせつつ、豊饒の夏ははや立秋を迎える。