五月の桜、終わらぬ夢―2004年5月「妹背山婦女庭訓」

森田美芽

 「妹背山」の小宇宙の根幹をなすのは、大和の国、春日と三輪という神域に由来する原 初の自然の力から生まれる超自然の力である。対立する両家の犠牲となる若い男女という きわめて人間的な主題を、とりわけ犠牲となる女性の貞節と献身において超自然の力と結 びつけたことによって、善が悪の原理を滅ぼすという単純なはずの論理を、神話の域にま で高めた作品である。
 三段目の「山」はこの全体を象徴している。2つ原理の対立、それは全体として善と悪、 鎌足と入鹿、天皇を供奉するものと僭称するものの対立である。この対立は屹立する二つ の山、その抗争のなかで犠牲となる人々の運命は、間を流れ下る吉野川の急流にたとえら れる。さらに、しばしば使われる、高貴と卑賤を対比し、その落差におかしみを感じさせ る技法と浄瑠璃に織り込まれたきわどい表現の数々。それは人の持つ原初的なエネルギー を解放する笑いとエロスを感じさせる。それゆえ妹背山の世界は、噴出する人間の生のエ ネルギーと、自然の持つ呪力の壮大なシンフォニーである。また舞台としては、初段で紅 葉、次に雪、3段目は雛の節句に桜、4段目は七夕に三輪山伝説を背景とする。人々の出会 いと別れの悲劇を、四季の移ろいの中に巧みに配置し、その時空の中に物語を悲劇的な運 命として成立させる。私たちはこの舞台を見ながら、そうした半二の世界の壮麗さに引き 込まれずにはおれない。
 2004年5月国立劇場での「妹背山」通しの上演は、そうした物語の本質に迫るものであ った。とりわけ簑助のお三輪の魅力において。
 初段、小松原の段。秋たけなわ、紅葉を配する春日野の出会い。運命の恋は一目で始ま った。そして二人は互いに自分が何者であるかを自覚する。恋はその公的な確執や家の事 情には関わりない。そこに悲劇が起こる。
 久我之助の貴大夫、この場を立ち上げる貫禄と久我之助の誠実さ。雛鳥の咲甫大夫、十 分。久我之助を一目で虜にするほどに。腰元小菊を睦大夫、このところますます調子を上 げている。腰元桔梗と注進をつばさ大夫、動きを出せるようになってきた。宮越玄蕃の文 字栄大夫、憎まれ役も的確。采女を相子大夫、落ち着いた詞の動き。喜一朗が全体の調子 と情景を見事に弾き分け、大夫をまとめる。
 蝦夷子館の段。雪の白さと冷たさ。口を始大夫と清馗、隅々まで力がこもる。節も自然 に流れるようになってきた。「心に探りのひと思案、真しやかに」が耳に親しい。清馗の素 直で品よい三味線。奥を松香大夫、喜左衛門。松香大夫はめどの方のやさしさ、蝦夷子の 大舅、入鹿の底知れぬ悪に迫り、喜左衛門は揺るがぬ北極星のように大夫を導く。
 蘇我蝦夷子の玉輝、老獪さを出す。入鹿を玉也、底知れぬ悪という困難に挑む。めどの 方の紋豊、しとやかで品ある遣いぶり。彼女もまた貞女であるが、同時に父、阿倍行主の 命を受けており、父と夫の対立に引き裂かれた悲劇の女性である。中納言行主を文司、り りしい検非違使。この場の久我之助のさわやかな若男ぶりも忘れがたい。
 二段目 猿沢池の段。津国大夫は短いが場の風を重んじて語る。団吾、的確に受け応え る。この場での禁廷の使の勘市は、きびきびした動きだが、もう少し舞台全体から見て大 きく遣えた方がよいのではないか。
 ここで三段目に移る。「太宰館」英大夫、清友。30分ほどの間に、この浄瑠璃のエッセン スを詰め込んだような、風と格と地力を要求される場。大判事と定高のやりとりに、二人 の意地と背負うものを示す。入鹿の登場。口伝では「入鹿は年若く、気張らず軽く高いと ころで発声する」と言われると聞く。実際聞いてみると、入鹿を気張らずに凄みを出すと いうのは至難の技である。素人の耳には、むしろ頼りなくさえ聞こえる。だが、ここで入 鹿という悪の本性と、大判事、定高の性根を定められるからこそ、この悲劇を納得できる。
 大判事は入鹿の若さのゆえに年の功で言い逃れようとするが、それを許さないで両家を追 い詰める抜け目なさ。それゆえ大判事は久我之助を、定高は雛鳥を差し出さなければなら ず、両家は互いに和解することもできなくなる。その重さ。大笑いの呼吸も十分。清友は 強くまたやさしく時を奏でる。
 眼目の「山の段」背山、千歳大夫の久我之助は荘重さを出すが全体に重々しくなりすぎ たきらいもある。この状況、愛する雛鳥への思いやり、若者の純潔というすがやかさを工 夫してほしかった。住大夫は「花を歩めど武士の心の険阻刀して削るがごとき物思ひ」の 大判事の苦衷が見事。義と名と共に子を思う父性の強さ、厳父の情を語る。清治の撥先か らこの場の沈鬱が広がり、錦糸は段切れへと導く迫力と呼吸。妹山、呂勢大夫の雛鳥は声 柄もはまり健闘。ただ一箇所、定高との掛合で「心ばかりは久我之助が宿の妻と思うて死 にや、ヤ」「アイ」「ヤ」「アイ」の件が強すぎ、定高とのバランスを欠いたように思う。定 高の綱大夫、「一つ枝に取り結び、切り離すに離されぬ悪縁の仇花」の裏に隠された母の思 いが迫る。「ヤア雛鳥が首討ったか」「久我殿は腹切ってか」のクライマックスへの運びは 息つく間もない。宗助の華やぎ、清二郎の瑞々しい造形に、清志郎の琴が嘆きを添える。
 人形では、まず勘十郎の雛鳥。小松原で久我之助と目交す、その一瞬で彼女の人生が変 わった。恋する娘、これ以外にない自分の相手を持った一人の女として生きはじめる。た だ一人の人を思う心の貞女、雛を打ちつける仕草の激しさに、垣間見る。和生の久我之助、 やや線が細いが、品あり花ある武士。この場では一番大人の配慮と少年の純潔を併せ持つ 魅力がある。
 玉男の大判事。ここでは千本桜の知盛のような、物語全体の座頭の象徴的な役というよ りも、息子を襲ったその困難に現実的に立ち向かおうとする、気骨と誇りの大人の代表で ある。これに対し、文雀の定高は、太宰の後家としての気概と娘を思う母の矛盾に苦しみ、 ついに母としての情の勝ったところに共感させられた。玉英の腰元小菊、お福の愛嬌も十 分、勘弥の腰元桔梗、主人に感情移入するやさしさを見せる。

 第2部は、二段目 鹿殺しの段に始まる。芳穂大夫(後半呂茂大夫)、龍聿。明快な言葉 の響き。
 掛乞の段、鷹揚な風格とおかしみ、詞の動きが楽しい。三輪大夫の実力発揮、喜一朗も 楽しませる。人形では、簑二郎の大納言兼秋にユーモラスな動き、玉志の米屋新右衛門も 着実。
 万歳の段、文字久大夫の節使いがよくなった。燕二郎は頼もしい助け手として後輩を導 く。ツレの清馗もよく響く。
   芝六忠義の段、十九大夫、芝六の苦悩を負う父性と忠義の対立、それに向かう妻であり 母のお雉との対比を鮮やかに描く。富助の表現力の幅。とはいえ、石子詰の刑や芝六が忠 義を表わすために杉松を殺す件は現代人にはどうも納得できない箇所である。寺子屋の場 合などと違い、首の身代わりという切羽詰った事情でなく、親の忠誠心を見せるためとい う論理に対しては違和感を覚える。
 人形では文吾の芝六が、芝六の苦悩に共感させ、勘十郎のお雉は母としての性根を貫く。 一輔、聡明で芯の強い子、万歳の丁寧で自然な舞も評価できる。簑紫郎、無邪気で愛らし い犠牲者がいっそう哀れ。和生の鎌足は孔明かしらで、初段の入鹿に対抗する大きさと智 謀を表わす。采女の清三郎、出番は短いが品格を要する役を良く遣う。玉佳の鹿役人、和 右の興福寺衆徒、憎まれ役だがその性根を表わしていた。
 四段目、杉酒屋の段。「井戸替」がないのはさびしい。いかにも唐突に始まる。嶋大夫は この場の三角、四角関係の面白さとお三輪の心根を描く。お三輪のいかにも少女らしい、 早熟な、それでいて一途な思いを清介の糸が彩る。
 簑一郎の子太郎、ひょうきんだがうまく笑いに導く。玉也がお三輪の母。遣い方に問題 はないが、入鹿という敵役を演じて、こうした役を割り振るのはどうなのだろう。 道行恋の苧環。津駒大夫、文字久大夫、呂勢大夫、南都大夫、咲甫大夫の美声の大夫ら に寛治、弥三郎、清志郎 清丈、龍爾のはんなりした三味線。清丈の跳ね返す力、清志郎 の深く冴える音の奥に師の影を聞く。
 女は追い、追われる男は別の女を追う。前半の「面影隠す薄衣に、包めど香り橘姫」の ゆかしさと後半のあけすけな恋の鞘当の魅力。
 鱶七上使の段。伊達大夫の野趣あふれる鱶七の魅力、入鹿とのやりとりの悪びれなさと 官女らとの対比の妙。合わせる団七の音と呼吸の確かさ。
姫戻りの段。津駒大夫、宗助。はんなりとした色気の中に橘姫の苦悩を描く。美声家の 聞かせどころ。宗助も大役に続き責任を果たす。
 金殿の段。咲大夫、燕二郎。「豆腐の御用」のチャリから官女のいじめ、お三輪の疑着か ら死までを一部の隙もなく仕上げる見事さ。お三輪が単なる怒りでなく、生き変わり死に 変わりというほどの一念がこもることを知らせる。お三輪の死の哀れさ。燕二郎は2場を 通じてその性根を見事に弾きわける。
 入鹿誅伐の段。新大夫、長い一日を納める勢いある語り。団吾は多彩な音色をテンポよ く仕上げる。

 こうして全体を見ると、どうしても二段目の芝六の件が、悲劇ではあるものの、四段目 の前説にしか見えないうらみがある。わけても簑助のお三輪の見事さ。出の愛らしさ、恋 する男への思い、苧環を持って追う執念、金殿でふと、はしたない女子と思われてはと留 まるいじらしさ、いずれもがお三輪という名に冠せられる全ての要素を過不足なく表わし ている。
     お三輪は、鱶七に殺され、自分の愛する人が実は藤原淡海であり、「あっぱれ高家の北の 方」と言われ喜びつつも、「この主様には逢はれぬか、どうぞ尋ねて求馬様」と言う。なぜ 彼女は「求馬」と呼んだのか。三輪伝説では、夜な夜な現れる男に糸をつけて後を追った ところ、糸は途中で切れて男は蛇であったという。お三輪にとって、その男は藤原淡海な どという見も知らぬ高貴の男ではなく、どこまでも烏帽子折求馬にほかならない。その彼 方の男は正体を現し、求馬という男はとうに幻となっている。しかし彼女は苧環を手繰り 続け、いつかはその果てに男を手繰り寄せるだろう。その情熱こそが彼女を入鹿退治の超 自然的な力と結びつけるのである。これは渡辺保が六世中村歌右衛門に寄せて論じている ことだが、それを体現しているのはこの簑助のお三輪に他ならないと思う。
 橘姫もまた、恋してはならない相手を好きになり、恋人に操を立てるべく、父に代わる 兄に反逆する。「誅伐」で宝剣を追って水に飛び込むさまは、「日高川」の清姫を思わせる。 彼女もまた、「妹背山」を彩る貞女である。清之助はこうした姫を描くに十分なものをいつ も見せてくれる。美しさと高貴さ、恋する女の情熱、まさにある意味半二の理想であると 思われる。
 紋寿の求馬、プレイボーイの色気と策謀家の顔。2人の女に愛され、女を自分の目的の為 に利用する冷徹さ。玉女の鱶七、大きく躍動感と力感に溢れる野性味、金輪五郎に戻って からの「鍛えに鍛えし忠臣」の骨柄が見事。勘緑の荒巻弥藤次、検非違使かしらをよく使 いこなす。亀次の宮越玄番 よい一対をなす。官女たち、紋臣、紋秀、文哉、玉勢。いき いきとよく遣っている。
 
 今回まず、上演の仕方に疑問をもった。初段、二段目がやや地味とはいえ、初段と三段 目、二段目と四段目を結びつける、こうした分割の仕方がふさわしいかと思う。これでは 物語はあくまで二つの恋と雛鳥、お三輪というヒロインの悲劇という人間的な主題にとど まり、それらを呑み込んでいく運命と歴史という壮大さへ結びつかないのではないか。と りわけ雛鳥と久我之助の件が、死して魂魄残るという感が薄まってしまった。「入鹿誅伐」 をつけたことで、一応それまでの犠牲と悲劇が成果をもたらしたことに理性的には納得で きるが、その情念というか、言葉にならないものの領域までは踏み入らないまま終わって しまうのでないか。つまり、言葉と人形を通して、超自然的なものを媒介するという働き が、見る側に通じるということがきわめて困難になってしまっているのではないか。
 「妹背山」の桜は、「千本桜」の桜と異なり、潔さや純潔、討たれし者たちの墓標として だけでなく、人知を超えた自然と歴史の動きを象徴すると思う。それが半二の描く迷宮の ような世界観の一つの結論であるのではないかと筆者は考える。桜の小さな花々が集まっ てその木と山を作り出すように、人の小さな思いと出会いが、重なり合い響きあい、まっ たく異なる大きなドラマの一部分として形成され、一つ一つの犠牲が絡まりあってさらに 大きな歴史を動かす。それをどうやってこの現代に伝えるか、それこそ彼らの伝える芸の 根幹の意味はそこにあると思う。
 また、配役にも問題を感じる。中堅以上の、奥や重い場を担当する太夫や三味線が、ほ とんど間をおかず2度の舞台を担当するというのは、あまりに過酷ではないか。そうした 形でしか、通しを上演することは本当に不可能なのか。相生大夫や緑大夫、呂大夫、八介 らを失ったことがこのような形で響いているとは思うが、このままだとまた無理のかかる 者たちを追い詰めることになりはしないだろうか。それだけでなく、次の世代を見据えた 芸の修行を段階的に進めることが困難になりはしないか。
 私たちは国立劇場の40年、文楽劇場の20年が積み重ねてきたもの、失ってきたものを もう一度見直し、新たな50年の礎を築かねばならない。私たちが見聞きし、感じているこ とが芸の本筋をわきまえ、それを理解する方向に向いているのか、また古きものがうせて ゆくのをいたずらに嘆くだけなのか。私たちの夢は終わらない。平成の文楽は、300年の時 の上にさらに新たな力を加えてゆくのだと信じたい。