永遠の今―-2004年4月「義経千本桜」

森田美芽

 「義経千本桜」の春。20年を越えて時は巡る。しかし人は変わる。鬼籍に入った者、引 退した者、朝日座を知らぬ者・・主役だけが変わらない。20年目の春は迷いと混沌の中で 新たな道を模索する春となった。
 千本桜、これまでも節目ごとに演じられてきた名作、人気狂言。「義経」と「忠」と「信」 をキーワードに、義経という悲劇の武将とその名と運命を分け合う狐の物語として、言葉 の芸術、語りの妙を凝縮するものであると気づかされた。だが演出は人形中心、いくつか の大事な言葉が省略されている。さらに配役発表後に役の変更がなされたことも疑問が残 る。それらはやはり、20年を経たいまの彼らの困難を物語っている。
 所見日が後半に偏ったため、ダブルキャストは後半のみ言及する。
 大序「仙洞御所の段」。つばさ大夫、睦大夫、呂茂大夫、芳穂大夫、相子大夫。三味線は 龍爾、清丈、龍聿、寛太郎、清馗。この物語の核となる初音の鼓のいわれと朝方の陰謀が 明らかにされる。
 忠と信、このキーワードを明確に発生するつばさ大夫、丁寧に義経の物語を語る睦大夫、 朝方との息詰まるやりとりは呂茂大夫、芳穂大夫も声が前に良く出る。相子大夫は精進の 成果を聞かせる。三味線ではやはり清馗の安定感が抜群。龍爾、龍聿、清丈、寛太郎らも 健闘。
 藤原朝方を紋豊、義経を和生、弁慶を亀次、猪熊大之進を一輔。紋豊の存在感と役の把 握の的確さを若手は学ぶべきだろう。和生の義経、りりしく芯の強さを感じる。「強く優な るその姿、一度に開く千本桜」と語られるとおりの武将。亀次も大団七の首を大きく遣う。 一輔は巧みに性根を表わすようになってきた。
 「北嵯峨の段」がカットされている。どうしても疑問のある場だが、若葉の内侍と小金 吾がここに出ていないと、藤原朝方の若葉の内侍への横恋慕という、三段目の悲劇の伏線 がわからなくなる。また若葉の内侍のやつしの姿から一度上臈姿に戻り、「すしや」後半で 村の女房姿になる変化の効果が半減するように思う。時間の関係かもしれないが、やはり さびしい。
 「堀川御所の段」嶋大夫、清介。川越太郎と義経の問答の迫力、義経の理ある詞、卿の 君の犠牲、にもかかわらず弁慶の暴走が兄弟の決定的な悲劇を生む。これらの件が隅々ま で、息詰る確かさで迫ってくる。浄瑠璃とは何よりも言葉によって組み立てられたその世 界を言葉によって伝えることと思わされる。清介の三味線は細部まで行き届いた着実な力。 アト、始大夫、清志郎。若々しい力の発露。始大夫は力が入りすぎるかと思えるほど真っ 正直にぶつかっていく。清志郎は瑞々しい充実。
 人形では文吾の川越太郎の父性と貫禄が見事。簑二郎の卿の君のけなげさが胸を打つ。 勘十郎の静、正妻を立てる聡明さと美しさ。まるで姉が妹に頼むように、卿の君が静に後 を託すのも無理からぬと思わせる。亀井六郎は幸助、駿河次郎は和右。品よく対照を見せ る。土佐坊正尊の玉勢はこのところ芝居ごとに腕を上げているのが見て取れる。
 二段目、「伏見稲荷の段」。呂勢大夫、宗助。落人となった義経主従の悲しみ、諦念、呂 勢大夫ならばそれが小手先の技巧でなく語れるはず。
 静のけなげさに対する義経の覚悟、逸見の藤太は文哉。文吾の狐忠信は額抜けで登場。 「渡海屋・大物浦の段」。口、三輪大夫、団吾。中、十九大夫、富助。切、綱大夫、清二郎。 三輪大夫は調子よく朗々と語る。おりうの詞が印象的。団吾も明確な手。中の十九大夫 は謡がかりが十分、知盛の銀白のいでたちにふさわしい大きさと気品を聞かせる。富助も 余裕を感じさせる。今回は綱大夫については適切な評価がしづらいので、言及を避けたい。 しかし清二郎の勢いある三味線を評価したい。
 人形では、玉誉の安徳帝が確かで品位あり、玉志の相模五郎、あくの強さをよく捌く。 勘市の入江丹蔵、短い出番だが印象的。
 わけても「渡海屋」における玉女の銀平と清之助のおりうの見事さ。銀平の大きさと男 伊達、腹に一物の底強さ、おりうの母らしさ、それらの中にふと匂わせる御所風、力を落 とした義経の色気と合わせて見所ある一場に仕上がった。知盛が正体を見顕し、白銀の衣 装に変わる。その凛々しさ、すがやかさ、気品。型を忠実に追いながらも、そこに溢れて くる瑞々しい力感こそは、玉女が正統の玉男の後継者であることを示している。文雀の典 侍の局、確かにその品格と位の高さは変わらない。帝を抱いて二重を降り、海辺へ近づく その足取りに、伝わるものが変わってきているのを思う。
   玉男の知盛。修羅の手負いは昨年9月よりも元気に見えた。だが最後、沖の岩に登るメ リヤスがいつもより多い繰り返しになっているのを聞いた時、胸が熱くなった。良し悪し を語ろうにも、胸が詰まって言葉にならない。それを言うには痛ましすぎる。目をそむけ たかった。ここまで遣い続けなければならない人形遣いという業の深さに。「名は引く汐に ゆられ流れ流れて、あと白波とぞなりにける」とは、なんという運命であるか。
 三段目、「椎の木の段」。口を津国大夫、喜一朗、後を千歳大夫、清治。津国大夫は言葉 は明確だが、各人物のふくらみが次の課題であろう。喜一朗は的確にこなす。千歳大夫は 権太が特によいが、それでも小仙に悪態づくところや段切れの子への思いにはまだ物足り なさを感じる。とはいえ、清治の示す高みへと挑み、それを越えていこうとする中から、 さらによいものを生み出してほしい。紋吉の善太、勘弥の小仙、いずれもよい風情。玉女 の小金吾、前髪の瑞々しい色気、熱い忠誠、ひそかに若葉の内侍に思いを持つかと思わせ るさわやかな若者。
 「小金吾討死の段」。小金吾討死の段 小金吾の松香大夫、無念さが印象に残る。弥左衛 門の貴大夫、短くとも手堅く余韻を残す。若葉の内侍は南都大夫、美声で嘆きも伝わって くる。新大夫が六代、五人組、勢いがある。喜左衛門はやはりというべきか、こうした掛 け合いをまとめる巧者。
 「すしやの段」前、住大夫、錦糸。これは誰も真似のできない、住大夫の独自の間なの だ。節や詞の使い分けは無論、その世界を作りだす力を持つ人としての。この世界では権 太もお里も弥助も弥左衛門も、今に生きる人間としてわれわれのうちの一人であると納得 させる。錦糸はその間合いをはずさず引き込んでいく。後、伊達大夫、清友。生き生きと 描き出す。一人一人がすみずみまで生きて呼吸している。感情が無理なく迫ってくる。決 して声が良い調子とは限らないときも、清友は実に頼もしい助け手であろう。権太のもど りから妻子を犠牲にした嘆き、父弥左衛門との別れまで息もつかせなかった。
 悲劇の中心となる権太を再び簑助が遣う。最後まで底を割らない、抜け目ない小悪党ぶ り、それでいて母親にすねて甘えるような仕草、「わたしにはとかくお銀」のリアリティ、 「命を騙らるる、あさまし」の嘆きの深さ。紋寿のお里、田舎娘、気が強くても愛らしく 早熟な娘らしさ。清之助の若葉の内侍、どこから見ても隙のない上臈にして妻にして母そ して女。典侍の局との決定的な差はここにある。彼女は母であると共に維盛の妻なのだ。
 そして玉男の維盛、優柔不断、親の威光、その彼がようやく見出したのが出家の道なのだ と納得させられる。玉也の弥左衛門、紋豊の女房、いずれも的確な存在感。玉輝の梶原、 敵役としての思慮深さと手ごわさがほしい。六代君は簑紫郎、高貴さと無邪気さを備えた 遣い振り。
 四段目、「道行初音旅」津駒大夫、文字久大夫、咲甫大夫、睦大夫、相子大夫、文字栄大 夫。三味線、寛治、弥三郎、清志郎、清馗、清丈、龍爾。津駒大夫は華やぎある静を、文 字久大夫は力感ある忠信を語ったが、津駒大夫は「これより吉野に」の矢声が、文字久大 夫は「三保谷の四郎」が届くようにさらに精進してほしい。咲甫大夫は豊かに響かせ、睦 大夫は「慕いゆく」が印象的。三味線は寛治の指導よろしきを得てうっとりとするような 見事なアンサンブルであった。
 忠信でも静でも見たいと思わせるのが現勘十郎である。霞たなびく吉野の山路、満開の 桜、肩衣も桜に一瞬で静が観客を捉える。その晴れやかさ、華やかさは他を圧する。忠信 は見台から現れる。狐の巧みさと忠信の色気に気合を感じた。連れ舞の美しさも忠信物語 の面白さも、終始目の離せない舞台であった。
 「河連法眼館」中、英大夫、団七。7年前にも聞いていたのだ。いまはわかる、言葉に張 り巡らされた旋律の糸、「千本桜」全体を象徴するかのような言葉の繊細と三味線の妙なる 手。綴れ錦か綾布のように、ことばが表地をなし三味線がその文様をつなぐ。気づけば言 葉の世界に引き込まれていく。ここは観客には忠信が狐と知られているだけに、下手をす るとくどいと思わせるところだが、そこを十分に引き込んで、奥の咲大夫、燕二郎(ツレ 龍聿)に手渡す。咲大夫の狐詞の巧みさを聞いていると、確かに義太夫の音が言葉を音楽 に変え感動を生み出すのだとわかる。段切れの三味線の弾むようなリズムと共に、忘れが たい出来である。清三郎の佐藤忠信も難しい役どころであろうが、巧みにこなした。

 確かに舞台を見れば、そのものとしては充実している。自分の与えられた役をいい加減 にする者などいないだろう。だからどんな舞台でも感動はある。だが今回はこれでよかっ たのかという思いがある。
 吉田玉男のなした最も偉大な仕事の一つは、間違いなく吉田玉女という後継者を育てた ことだ。知盛に必要な立役としての全ての要素―大きさ、品格、強さ、執念を備えた遣い 手である彼を。玉男の知盛を模範とするなら玉女はまだそれに及ばないだろうが、玉女の 知盛には師匠とは異なる魅力がある。何より現段階での勢いと花がある。
 吉田簑助と勘十 郎にもそれは言えるだろう。問題は、彼らが座頭・立女方として自分の弟子だけを育てて 引き上げたというだけの結果となってしまうのか、それとも文楽全体にとってのよりよい 道となったかということだ。無論あくまで観客側からの見方にすぎないが、玉男・簑助・ 文雀らという偉大すぎる壁を前に、そこにいたるまでに多くの者が力尽き、またその力を 出し切れないまま終わってしまうのではという危惧である。そうなった時、はたして文楽 は存続しうるのだろうか。
 この公演の前に一暢がなくなった。彼も途中で力尽きた一人である。その痛ましさは言 いようがない。また若い人形遣いの吉田幸司、桐竹一徳が廃業したと聞いた。彼らは共に 研修生から修行しよい成果をあげていたにもかかわらず、彼らを育てることができなかっ たことは遺憾である。逆に呂茂大夫や玉誉が復帰し以前にもましてよい成果をあげている ことは大きな喜びである。一暢も子息の一輔がよい修行を積みその片鱗を見せている。だ が彼らのこれからの道の険しさを思うとき、手放しでは喜べない。
 20年前、やはり文楽の伝承と存続の危機が叫ばれていたが、国立文楽劇場の開場がそ の起爆剤となりいまでは一つの市民権を得ているように、いまのこの困難が、過ぎ去って しまえば思い出となるのだろうか。玉男の役を玉女が、簑助の役を勘十郎が演じるように なり、さらに次の世代になっても、昔を知らない人がやはりそこで文楽に出会い、「文楽は いい」と思えるような時がくるのだろうか。私たちに「永遠の今」は繰り返されるのだろ うか。偉大な過去ではなく、今に生きる彼らが、いま、ここで示す芸の充実に陶酔し、共 に一つの時代を作っていける時が。