新たなる時よ目覚めよ(正月公演評)

森田美芽

 千穐楽の日、この稿を書いている。今回はようやく一部二部ともに見ることはできた。
 これを書いているその時間、もう一度彼らの芸に出会いたいと何度思ったことか。手を伸 ばせば届きそうな、それでいて隔てられた時間の中で、彼らの舞台の一つ一つがこの手の 中によみがえってくる。
 今回の狂言は「八百屋献立」を除きすべて過去に見た経験がある。 今見ているものが過去の経験と重なり、あるものはその意味をようやく見出し、あるもの はその変化に驚く。一つの狂言にいくつもの時が重なる。そうした経験をした。

「寿式三番叟」
 十九大夫の第一声がこの舞台のすべてを表わす。荘重にして風格あり。 松香大夫、情と格はあるが瑞々しい色気というのはやや無理があるか。文字久大夫と新大 夫、勢いある三番叟。ツレ文字栄大夫、芳穂大夫。三味線は富助、弥三郎、団吾、龍聿、 清丈、勘太郎。
 清之助の千歳。梅の香の馥郁たる香りをあたりに漂わせる、若男。14,5歳であろうか、 その微妙な少年の美と色気を、そのはかなさに至るまで感じさせる。
 和生の翁。師の文雀のカリスマ性には及ばぬものの、誠実にして気品ある翁の格を演じ た。「万代の池の亀は」以下の優雅さも忘れがたい。

 勘十郎と玉女、この二人の三番叟というだけで思いが入る。3年前のあの三番叟で見た ものは、一つの奇跡のようにさえ思える。三番叟という意味を私はこの目で見た。その記 憶を重ねつつ、いまの舞台を見てしまう。思いは今とかの時を行き来する。
 鈴の段の17杯の繰り返し。勘十郎と玉女、互いの左遣い、足遣いまで力のぶつかり合 う舞台。3年前、あの繰り返しは20回を超えていた。あの時、清治の率いる三味線の、 大地の底から湧き上がってその場を満たし、隅々までそこに居あわせた者すべてを高揚さ せ、その向こうの、無限の繰り返しの時が螺旋状につらなり永遠へと引き込まれてていく ように思われた。今回、富助の三味線は、どこまでも清浄に、高ぶろうとする感情を抑え、 神への奉納としての格を保ったように思う。その通り、今回は三番叟もその規矩のなかに 余裕というか、内に秘める力を感じさせるものであった。


「染模様妹背門松」
 この舞台は、20年前、「油店の段」を含めた版で見たことがある。「生玉」からにすることで、確かに大つごもりの1日の緊張感は伝わりやすくなるだろう。
 「生玉の段」千歳大夫、燕二郎、ツレ咲甫大夫、清馗。千歳大夫はずっと自然にこうし た生活世界を描けるようになった。燕二郎も着実な手。咲甫・清馗は若々しい彩を添える。 お染は紋寿、久松は一暢に代わり清之助。清之助はやはり前髪の少年の色気がうまい。主 を裏切り娘と通じ、妊娠までさせてしまったという義理からくる自責の念。にもかかわら ず無邪気にじゃれあう幼さの対比がなんともいえない。紋寿のお染の愛らしいこと。6年 前に見た簑助のお染は、まだほんの子どもでありながら色事だけは知ってしまった娘のあ やしさを強く感じさせたが、紋寿のお染は、大家の娘らしい鷹揚さと、それゆえ純粋に1 人の男を思う一途さを見せた。文司の善六は蔵前を含め地力を発揮してきた。

「質店の段」
 住大夫、錦糸。空気が変わる。劇場が300年余り前の大阪の街角に移動 したように、大つごもりのざわめき、人々の暮らしぶりが伝わってくる。そして無学な百 章の口から出る息子を思うゆえの言葉の数々、その説得力。錦糸は場面を、人物を彩り豊 かに描き分ける。祭文売りの勘市、質受男の清五郎、質入女の清三郎、それぞれによい役 割を果たす。久作は文吾、白太夫の首の味わい、親としての情、こうした役がしみじみう つる。紋豊の母おかつ、大家の「おえ家さん」の貫禄と母としての強さ。お染の論理がいよ いよ幼く見える。

「蔵前の段」
 英大夫、団七、ツレ団吾。この場のお染のくどきが忘れがたい。「可哀相に 久松が思いつめて死んだのを」お染が死ななければならない理由は、彼女が黙って嫁入し なければならない理由よりも重い。
 ただこの場の改作には、いささか違和感を感じざるを得なかった。なぜ白骨の御文様を 省略するのか。お染と久松が蔵の内外で心中してこその悲劇ではないか。もし二人で逃げ たままどこかに道があるなら、死を思いつめることは、それこそ滑稽ではないか。善六の からみは前回と同じと記憶する。
 このチャリが生きるのは、二人が死だけを思いつめてい るからである。英大夫の語りや団七の三味線は伸びやかで人物が生きている。しかし、め でたいと言われる正月こそ、死に近づく里程標であることを昔の人は知り、覚悟していた からこそ、この世の楽しみを心から楽しんだのではないか。今のわれわれには、あやふや な生の実感と、死から目をそらすだけの安易さだけのような気がしてならない。今回、出 演者の力と充実にもかかわらず、もう一つ、感動に至るとは言えなかったのは、この物語 の焦点がはっきりせず、つごもりから明けの元朝までの1日という時の凝縮を十分に生か せなかったからではないだろうか。


「壇浦兜軍記」
 歌舞伎であれば、立女方の素養を見せるワンマンショーになりがちなこの狂言のおもし ろさを納得させられた。それはなにより、義太夫としてのおもしろさである。重忠と岩永 の水面下の争い、愛のゆえにただひとり権力に立ち向かう女の強さ。嶋大夫の描く阿古屋 は、政治の論理に打ち勝つ、一筋に男を思う女の論理の物語である。重忠の余裕と、岩永 の滑稽さの対比の見事さ。呂勢大夫の榛沢六郎、若々しく勢いがある。清介への信頼感、 宗助の力感は無論、特筆すべきは三曲の清志郎。どの曲もすみずみまで阿古屋の思いを伝 えるにふさわしい、ひとつとして無駄のない曲と納得させる出来栄えであった。阿古屋は ここで、離れている夫との間に積まれた、いまは自分のうちにしかない時を繰り返し、偲 んでいるのだ。
 簑助の阿古屋、5年前の正月は休演せざるをえなかった。いま、左の勘十郎、足の簑次 親子とともに、新たな阿古屋を創造する。苦界を知り、そこに体を張って生きる女の強さ とやさしさ、気概。文吾の重忠、風流を解する心ある武人。玉也の岩永、悪役だが憎めな い。榛沢の玉輝にはむしろ実直さを感じた。水奴の紋臣、紋秀、玉勢、簑紫郎らの健闘も 記しておきたい。


第二部「良弁杉由来」
「志賀の里の段」
 三輪大夫の渚の方が声柄も合い明確。貴大夫はあぶなげなく、南都大夫、睦大夫もきち んと役割を果たすが、果たして南都大夫はこの役だけに納まるべき人なのだろうか。三味 線は清友、悲劇の発端となる場面の展開を糸で丁寧に表現する。ツレは清馗、龍聿、八雲 の扱いも丁寧に仕上げられた一場。勘弥の乳母小枝、危なげない出来。腰元の簑一郎、和 右、扱いが柔らかくなってきた。

「桜宮物狂いの段」
 千歳大夫、呂勢大夫、始大夫、咲甫大夫、つばさ大夫、三味線清治、 喜一朗、清志郎、清丈、龍爾。
 清治の三味線に鍛えられる若い太夫・三味線たちは幸いであろう。芸の水準、音の質、そ のすべてにおいて自分ののぼるべき水準を目のあたりにできるのだから。
 この渚の方の30年とはどんな年月であったことかと思わされた。千歳大夫はこの正気に 立ち戻る変化を聞かせた。玉英の花売り娘、簑二郎の吹玉屋も目に楽しい。

「東大寺の段」
 津駒大夫、喜左衛門。渚の方の心もとなさ、「誰を頼りて」の嘆き、津駒 大夫はしみじみとした味わい、雲弥坊の人のよさ、心地よく聞かせてくれた。喜左衛門の 三味線は、大夫を本来あるべきところに導く力を感じた。紋豊の雲弥坊も好人物でほっと させられる。
「二月堂の段」
 良弁の述懐、30年の歳月、まだ見ぬ親への思いの深さを綱大夫、清二郎 で聞かせる。玉男の良弁。緋の衣、悟りの首。しかし表現は心に染み入る。どれほど人間 として純粋に深められた30年であったことか。渚の方の失われた30年とがここで出会う。 捜し求めた長い月日は無駄ではなかったのだと。
「八百屋献立」
 「心中宵庚申」のやりきれなさを救うために、こうした改作ができたの だろうか。確かに多くの人物が絡む割に奥行きは薄いが、文句なしに楽しめる。伊達大夫 と寛治のコンビならではの呼吸と余裕。勘十郎のおくま、脱帽というよりほかはない。玉 女と和生の生真面目さとの対比があまりに見事。十蔵の亀次、嘉十郎の幸助、それぞれの 役の性格をしっかりつかんでいる。


 今回、ただ一度であろう出会い、二度とはめぐり合えないだろうと思える舞台と、これ からますます洗練されていくであろう舞台に出会った。それを初芝居という繰り返し、時 の経過にうずもれ、忘れ去られていくものにはしたくない。たとえ後になってからしかそ の意味を知ることができなくとも、見たということがいま、私たちが出会っていることの 意味を作るのだと思う。
 文楽の芸は時間の深まりの意識とその受け渡しである。彼らは自分の人生の時間ととも にもう一つの時を受け継いでいる。彼らはその芸を師匠先輩から受け継ぐ時、もうそれは 彼らだけのものでない。彼らが受け継いでいるのは、その30年、50年、300年の時をかけ て作り上げられ、洗練され、時に応じてその新しい輝きを増し加えてきた、文楽という歴 史そのものを担っているのだ。
 国立文楽劇場の20年は、ただ10年、15年の続きではない。文楽の歴史と伝統を担って 次世代に受け渡すための時間である。限りある私たちの一生で、20年は決して短くはない。 その時間を作り出してきた文楽劇場の役割は過小評価してはならないものだ。
 文楽が世界遺産に指定されたのは、それが人類に共通の時の意味を担ってきたことであ る。未来は過去に積まれてきた時の中にある。永劫回帰ではない。私たちは過去の中に伝 えられてきたことに真に関わることによってしか、正しい意味で未来となるものを作り出 すことはできない。文楽は簡単に時代に動かされることを望まない。だが、彼ら一人一人 が、真実にこの芸を受け継ぎ受け渡していこうとするその時の充実のなかにこそ、新しい 時代にふさわしい、しかも人を真実に動かしてやまないものが生まれるはずなのだ。
 新たなる時よ目覚めよ。その昔彼らの父祖より受け継いだ力を、今また新しく見出すた めに。