「重の井」母なるものの光と影――6月鑑賞教室「恋女房染分手綱・重の井子別れ」に思うこと

森田美芽

 誰でも、生きてきただけの後悔がある。あの時ああしていればと、取り返しのつかない 悔やみ事を繰り返す。だが、子供に関わることだけは、後悔ではすまない。親となった人 間にとって、それはいつでも自分自身への最も鋭い刃であり、突きつけられる清算されざ る過去である。
 恒例の6月鑑賞教室を、今年はA、C、D班を見ることが出来た。繰り返し見る「重の井」 の美しさと哀れさ。言ってみれば、キャリアウーマンの母とストリートチルドレンとなっ てしまった子の出会いと別れ。ともすれば子の哀れさに目がいきがちのこの物語の悲劇の 骨格が迫ってきた。
 順を追って語ろう。まずA班の「五条橋」、牛若丸は吉田清之助、弁慶は吉田玉也。牛若 丸は若衆の色気を含み、弁慶には老獪な強さを感じる。松香大夫の力強い語りと貴大夫の 音使いの巧みさ。三味線も弥三郎を中心によくそろって楽しめた。
「道中双六」文字久大夫、燕二郎。ツレつばさ大夫、龍聿。文字久大夫は詞に工夫が見 える。語り分けも良く勉強している。本田弥三左衛門の詞が少し重い。燕二郎は力強くリ ードする。つばさ大夫はもう少し力を抜いても声を届かせることができるはず。龍聿もし っかりとついていく。
「子別れ」英大夫、清友。清友の弱音の魅惑的なこと。緩急をこころえ、英大夫を語ら せる。調姫、三吉の高音、重の井のためらい、後悔、わが子をこんな目にあわせて・・と いう嘆きがつとに伝わってくる。
 本田弥三左衛門は玉幸に代わり玉也、貫禄ある家老の風情。宰領は清五郎、勘市。動き も確か。調姫は簑次、愛らしいいとけなさ。大名の娘にしては幼いところも。踊り子は簑 一郎と簑紫郎、簑紫郎は先輩におくせずついていくところがよい。腰元若菜は亀次、安定 した遣い振り。三吉は一輔、品あるけなげさが涙を誘う。重の井は紋寿。さすがに重みと 品格を備えた重の井。

 C班の「五條橋」玉英、勘緑。玉英はじっくり確実に、勘緑は大団七のユーモラスな味わ い。始大夫、南都大夫 始大夫は高音部も自然にこなせるようになってきた。南都大夫の 声が落ち着いて、大きさを増してきた。弥三郎は夜の五條の妖しさを響かせたかと思うと、 一転して華やかなリード。喜一朗はここでは柔かさのまさる音色。
 D班の「五條橋」は簑二郎、玉志。簑二郎は細かいところまで丁寧な使い振り。玉志は 大きさと着実さ。団吾は繊細で美しい流れだが、音の陰影、立体感を学んでほしい。
 C班の「道中双六」。呂勢大夫、ツレ睦大夫、三味線清二郎、龍聿。呂勢大夫の美声がよ くうつる段。双六のくだりは景色の移り変わりが目に見えるようだった。睦大夫も声がよ く伸びる。清二郎はあぶなげなく弾きこなし、音色の変化も楽しい。
 「重の井」C班。英大夫、清介。三味線が清介に変わることで、また違ったふくよかさ、 流れの美しさが出てきたように思う。英大夫は無理なくドラマの流れを作る。特に「この 母が悋気から・・」で、この物語の初めから彼女が負っているものの重さを感じさせる。 母に立ち戻るところもまた、そうせずにおれない思いが伝わってくる。
 紋豊の本田弥三左衛門、高齢の風情、飄々として、だが家老の風格。宰領は幸助、玉勢。 バランスの取れた動きが気持ちよい。簑次の調姫。踊り子は紋秀、紋吉。紋秀はきびきび と、紋吉はじっくりと遣う。腰元若菜は清三郎、お福かしらに慣れてきた。重の井は和生。 品よく姿もよい。前半は乳母としての責任感、後半は母らしさを十分に出した。三吉は玉 佳、武士の子である気概を感じさせ、それゆえに哀れがいやまさる。
 「道中双六」D班。所見の日には文字久大夫が病気休演で呂勢大夫、ツレつばさ大夫、 三味線清太郎、清丈。清太郎も安定した美音を生かし、清丈もしっかりしてきた。
 「重の井」D班。津駒大夫、富助。津駒大夫の浄瑠璃は美しく、泣かせる。だが、重の 井の苦衷にもう一歩迫るには、詞における人物の描き方の深まりが必要なのではないか。 富助の音色は、深く重の井の孤独に迫る。
 玉女の本田弥三左衛門。好々爺という言葉を思い出した。宰領は清五郎、勘市。調姫は 幸司、丁寧で愛らしい遣い振り。踊り子は簑一郎、玉翔。簑一郎は動きが自然になってき た。玉翔は光るものがある。腰元若菜は和右。生真面目な遣い方。重の井は勘十郎。芸達 者というより、この人はどんな役もその本質を遣いこなす勘が備わっている気がする。三 吉は一輔。
 
 この「重の井子別れ」で泣かせるのは、子役の三吉のいじらしさであろうが、私には重 の井の嘆きがあまりに身に迫ってきた。
 なぜなら、子を置いて去る父は、大義名分が立てばめったに非難されないが、母が子を 捨てることは、どんな理由であれ非難される。重の井の苦衷を見ると、それはあまりに逃 れようのない状態なのは納得できる。
 不義からとはいえ、自分の身代わりに父を切腹させ ながら、主の特別な計らいで姫の乳母となった。筋から言えば、彼女は二重三重の恩をこ うむっている。この、姫の東国への輿入れという大事を、両家の顔を立て子どもに惨い別 れをしいても成功させなければならない。本田弥三左衛門は赤い衣に身を包んでも、抜け 目ない使者である。だれにも弱みを見せてはならない、彼女の失敗は家と家の対立となる。
 絶対に失敗が許されない状況で、子を取るか、主君を取るか、究極の選択を迫られる、重 の井の苦悩の深さ。
 男性ならためらいなく主君を取るだろう。子どものことは、妻かだれか、代わりに見て くれる者がいる。だがこの場合、重の井には代わってくれる人はいない。重の井の貫禄あ る打掛姿と三吉の対比。これで母を責めるのはあまりに酷だ。だが世間はそれを許さない だろう。
 女性が母となりながら母である以上に公人であることを優先するとき、女性は非 難の対象になる。母親失格と言われる。現代のキャリアウーマンにとって、しばしば起こ りそうな状況である。
 そんな中、彼女たちは必死に両方を選ぼうと苦悩する。重の井の場 合、父の命、主君の義理、夫の面目、いくつもの責任が彼女の肩にずっしりとのしかかっ ている。誰が彼女を責めることが出来よう。ただ無垢なる三吉のほかに誰が。それゆえに この一段は、お涙頂戴の母恋ものとは歴然と一線を画するのだ。
 英大夫の浄瑠璃を聞くとき、一段の語りの中に凝縮された、浄瑠璃全体の物語世界が、 その起承転結と呼応したその段の性根が見事に浮かび上がる。この三吉のたどった数奇な 運命が、封建時代の義理の論理のゆえに、武家の惣領の地位のゆえに起こったことであり、 それゆえに三吉の無垢が胸を打つ。
 重の井もまた、母なるものの重荷を負いつつ、その二 つの論理に耐えていることが胸に迫る。子を捨てる親、親に捨てられる子、ここで別れれ ば、再び生きて会うことはないかもしれない。その切実さを納得できる好舞台であった。    一人一人のもつものに、さらに新しい表現が加わった気がする。
 だが、彼らのすべてがも う一歩進めるためにも、さらにもう一役上を、と願わざるを得ない。この鑑賞教室は、主 として学生を対象に、若い観客に文楽を体験してもらう趣旨であると聞く。ならば、若い 技芸員たちの精一杯の舞台を見ることで、理屈ぬきに若い世代への共感を育てることがで きるのではないか。そしてその中から、若い世代も浄瑠璃世界の古さのなかの新しさを見 出すことが出来るのではないだろうか。時を越えて私たちを感動させるものを。