名にし負う君に――三世桐竹勘十郎襲名公演――

森田美芽

 文楽劇場は、ひさびさに華やかな春となった。待たれていた新勘十郎の誕生。補助席ま で満杯の劇場、満開の桜、越後の上原酒造からの薦被りが積まれ、関西歴々の大企業も名 を連ね、この襲名が、大阪中の期待を背負ったものであることが思われた。
 新勘十郎には、父譲りのといいたくなる人形を遣ううまさ、人形を動かす技術の的確さ、 その技術を通しての表現力、何よりもおのずから輝き出でる輝きがある。その輝きが焦点 となり、師匠たちの盛り立て、後輩たちの努力が結集し、まれに見る見事な舞台となった。
 「面売り」三輪大夫、文字久大夫を軸に、始大夫、相子大夫、つばさ大夫らが勢いある 声を合わせる。三輪大夫はしっかりとまた色気を含み、文字久大夫はいきいきと楽しく聞 かせた。三味線はリードする団七に助ける弥三郎、次に若手の清馗、清丈、龍聿、龍爾ら が並ぶ。経験5年から1年の若い三味線が清々しい。おしゃべり案山子は簑二郎、面売り 娘が玉英。明るくめでたく舞台を勤めた。
 「口上」前に三業を代表する師匠たちと咲大夫、後ろに簑助一門の弟弟子たちが並ぶ。 文楽の中でも、この襲名にかける思いは大きいと知らされる。新勘十郎のやや緊張した面 持ちが印象的。

 「絵本太功記・十段目」「夕顔棚」は呂勢大夫、清友。呂勢大夫はなめらかによく語るが、 この場の人物の心に秘めたものの深さを感じさせてほしい。清友は的確に太夫を支える。 尼が崎の段、切嶋大夫、清介、奥、咲大夫、富助。嶋大夫は十次郎の清廉さ、初菊の切な い思いをじっくりと聞かせる。清介ははなやぎある瑞々しさ。咲大夫は「ここに刈り取る 真柴垣・・」以下の光秀の強さ、大きさ、「波立ち騒ぐごとくなり」の大落しを、迫力で締 めくくった。富助の力と技と息の確かさ。
 人形では新勘十郎の光秀が、初役とは思えない出来。勢い、強さ、人物の大きさ、そし て家族にも理解されない孤独、父の無念さまで、生きた人物としての光秀を感じさせ、様々 な男役の形も見事に決めた。それにしても、脇を固める師匠たちの見事さはどうだろう。 玉男の十次郎と簑助の初菊の、瑞々しい可憐さ、若々しさ。積み上げられた芸の底力を見 せつけられた。紋寿の皐月、武家の気位、老女の一徹、そこににじむ孫や息子への思い。 文雀の操、口説きに見せ場を作るほか、やや控えめに、品位をもって演じた。久吉の勘弥、 勘緑。勘弥はさわやかな知将らしく、勘緑は一筋縄でいかない人物であることを感じさせ る。勘市の加藤正清、よくまとめた。子息と弟子たちの活躍に、定めて泉下の先代も喜ん でいるであろうとは寛治の口上であるが、見る者すべての思いであった。

 「紙子仕立両面鑑・大文字屋の段」中、松香大夫、喜一朗。切、綱大夫、清二郎。「尼が 崎」の手に汗握る緊張感から、打って変わって大阪の商家の風情を描き出す。松香大夫は こうした世話物の情味や人物像になると、やはり地力を発揮する。番頭権八の憎らしさや 小ずるさ、娘を思い義理を思う母の情け、しみじみ感じさせる。喜一朗もよくその世界を 描けるようになった。綱大夫には、こうした世話の風情を過不足なく語れる貴重な人であ ると思う。兄栄三郎の思い、お松の哀れさ、助右衛門の義理と父としての情愛など、胸に 迫るものがある。清二郎もそうした風情を身に付けてきた。
 人形では、第一に清之助のお 松。お園を思わせる孝行嫁でありながら、夫に省みられぬさびしさ、いままた夫のために 身売りを迫られ、それを受け入れようとするいじらしさ。斜めに落とした視線の先に、夫 への思いを抱きつつ、運命に流される女を描く。一暢休演のため栄三郎は和生が、すらり と品良く義理をわきまえた兄の役目を果たす。権八は文吾が、よく動いて喜劇的な幕切れ まで飽きさせない。母妙三は玉松休演で紋豊。こうした世話の母役は手に入っているとい う感じ。万屋助右衛門、玉幸は少し元気がないように見える。こうした情ある老人も説得 力をもつ人だけに、くれぐれもお大切にと願う。伝九郎は玉輝、ふてぶてしい悪人。手代 忠兵衛は文哉、玉勢が、丁稚は紋吉、玉翔が、下女は簑紫郎と玉一郎が交代で遣う。それ ぞれ丁寧に、それぞれの役割を果たしている。

 第2部は「妹背山婦女庭訓」の半通し。初段と三段目を久我之助、雛鳥の恋物語を中心 に上演する。ただ、こうして恋物語風に収斂させてよいものかとも思う。この物語の全体 は、巨悪に立ち向かう人々の献身と犠牲であり、恋はその契機にすぎない。でなければ、 久我之助が腹を切らねばならぬ必然性も納得できない。舞台の充実を見るにつけ、そこに 語られる世界の意味をわれわれが受け取ることの困難を思った。
 「小松原の段」久我之助が貴大夫、雛鳥を南都大夫、腰元小菊を咲甫大夫と新大夫の交 代で、腰元桔梗を睦大夫、宮越玄蕃を津国大夫、采女を文字栄大夫、三味線は清太郎。そ れぞれ、丁寧に役どころを語り、大事な場面を納得させる。清太郎はしっかりした弾き分 けで場面を丁寧に浮かび上がらせる。采女は紋臣と紋秀が交代で。前回の紋豊のように、 出てきただけで位を感じさせる、とまではいかないが、それぞれ品位を出そうと努力して いた。

 「蝦夷子館の段」口、新大夫と咲甫大夫が交代。新大夫は語りにしっかりとした強さが加 わり、咲甫大夫は声が豊かに伸びてどちらも素晴らしい出来。団吾も力強く弾いた。奥の 伊達大夫、寛治。さすがに蝦夷子の老獪、めどの方の貞女ぶり、入鹿の血気を見事に語り、 響かせる。人形でも、紋豊の蝦夷子、玉也の入鹿がいずれも悪の懐深さを感じさせ、新勘 十郎のめどの方は、ひたすら夫を思うもう一人の女の鑑である。文司の宮越玄蕃と玉志・ 幸助の荒巻弥藤次、対照になったときのバランスがとれて動きもよい。中納言行主の亀次、 やはり信頼できる遣い振り。
 三段目「太宰館の段」津駒大夫、喜左衛門。花形が一度は通らなければならない関門。 大判事と定高の対立、入鹿の命令、入鹿の出陣まで、勢いと重みの両方を要求される場で、 喜左衛門のリードによく応え、津駒大夫は力いっぱい語ったが、それでもやはり、重みと いう点では不満が残る。これは津駒大夫がどうしてものりこえていかねばならない課題で あると思う。なお、人形で注進の玉佳、一輔もきびきびした動きがよかった。

 「妹山背山の段」背山、英大夫の久我之助、マクラ一枚を沈うつに、重々しく語る。久 我之助はすでに死を覚悟しているというのがじんと伝わってくる。落語作家の小佐田定雄 氏が、この場では久我之助が一番大人だ、といわれたが、この場のすべての状況をのみこ み、すべて他の人物を思いやり、自分ひとりが犠牲になることで周囲を救おうとする潔さ と廉潔さ、それゆえの苦悩が伝わってくる。玉女の人形にはこうした若者だけが持ちうる、 すがすがしい色気がある。燕二郎の三味線も強さとすがやかさを備えた音色。ただマクラ のところで、英大夫の語りとかぶってしまうところがあったように思う。
 妹山、千歳大夫の雛鳥、久我之助に貞女を立てようとする娘の一途さが胸を打つ。自分 の思いに忠実に、久我之助を思い、その思いを表現する。久我之助と対照的である。和生 の雛鳥も、姫らしいおっとりした純真さに激しい情熱を感じさせる。腰元二人は清三郎と 清五郎、和右と簑一郎の組み合わせで前後半交代する。小菊の方に、お福らしい愛嬌と面 白さを出しても良いのではと思う。宗助は初々しい娘心に沿った糸。
 大判事の登場。十九大夫と清治。この大きさとスケールを表現しうるのは、この二人を おいてほかはないだろう。十九大夫の言葉に苦衷がにじむ。骨太で気骨ある大判事。義と 子への情に涙するほかない男の心中。清治は迫力に満ちた段切れに至るまで、この物語の すみずみまでも心に響かせる三味線であった。
 定高は住大夫。心と言葉は裏腹に、娘を説得する。しかし娘はあくまで久我之助に操を 立てようとする。それと知って娘を殺そうとする二人の間での心の対話。しかし刃を取り 上げて、2度3度とためらう切っ先。住大夫の独壇場である。錦糸の糸には悲しみの中にも 一筋艶やかな色がにじむようだ。清志郎の琴は節度ある悲しみ。
 文吾の大判事は、どちらかといえば父親としての思いを切実に伝える人間味ある大判事 であり、紋寿の定高は品格と誇りを忘れぬ後室の強さの間に見せる母の思いが美しい。

 この公演のあいだ、機会があって、吉野川から妹山背山をながめることができた。花は すでに終わり、山はかすんでわずかに蔵王堂がうかがえる。舞台は、この自然をあの仕掛 けに置き換えることにより、花の盛りの一瞬の時を永遠にした。流れ来る水音のかわりに、 三味線の一撥が、このイマジネーションを一つの世界にした。現実よりも美しいその時空。 英大夫も新勘十郎も、この世界の一員なのだ。彼らの作り出す舞台は、流れ行く時を凝縮 し、瞬間を永遠に刻み、現実よりも現実らしい虚構へとわれわれを引きずり込む。夢では ない。それは、一つの希望である。
 新勘十郎の誕生は、私たちの世紀に、文楽が命をもちうるという希望である。文楽の世 界で、襲名は通常、伝統芸能で思われているものと全く違う意味を持つ。
 家の神聖さや血 の神話など信じない、ただ志を立てた者から順という明快な秩序。力や素質、努力しうる 時間を思えば、一秒でも早く入門した者からの序列という、きわめて明快で合理的なシス テムと、実力順という清潔さ。
 その中で生まれた勘十郎に期待されるのは、先代そっくり であることでなく、彼独自の人となることである。襲名は先代の芸の縮小再生産ではなく、 新たな芸境へ向けての反復、より充実した彼自身となるための受け取り直しである。
 先代 の豪快な立ち役や萩の祐仙のようなチャリといった役どころだけでなく、名師吉田簑助の もとで身に付けた様々な女方の充実ぶりを見ても、彼が勘十郎の名に新たな広がりを付け 加えるであろうことが期待される。その意味では、芸における同世代の英大夫、清友、和 生、玉女ら、彼らの時代を引き寄せるために、正しく今が正念場と言うべき時なのだ。
 大 師匠たちの芸境をわがものとするために、その、決定的な壁を越えていくために、そこに 生まれる芸の正統の伝承のために、彼らはこれまで以上の試練に立たされるだろう。だが、 何より心強いのは、勘十郎にはよきライバルといえる同世代の和生、玉女や後輩の清之助 ら、今まさに開花しようとする仲間たちがいる。文楽の芸は、決してひとりでは成り立た ない。その意味で、勘十郎の襲名は新しい流れ、新しい世代の始まりであり、これから起 こってくる世代交代の確かなしるしとして位置づけられる。

 それゆえ私は英大夫に期待する。彼の語りには、戦後という世代が文楽の歴史にいかな る意味を見出せるか、どのような意味を付け加えることができるかの問いがかかっている。
 私たちは歴史を結果から見て生きることはできない。未来に向けていま、自分たちをどう 位置づけるかによって作る立場が結果として歴史をつくることになる。義太夫節、人形浄 瑠璃が本当の意味で生き残るために、彼らの精進と正しい展望に期待し、私たちもまた、 その展望を共にしていきたい。そしてあの吉野川の流れのように、絶ゆることなく芸の新 たな命の流れを生み出していってくれることを願う。