土地の力――「摂州合邦辻」の深層

森田美芽

 「合邦」は私にとって、文楽を見る原点のような作品である。
 玉手御前というヒロイン像の不可解さと強さ。それは確かに、彼女の俊徳丸への思いを恋であると一義的に決めることのできないような、人間の魂の深みを垣間見させ、魂の闇へといざなうものであった。2003年2月文楽東京公演で、初めて「合邦庵室」の前に「万代池の段」を見て、「合邦」の世界のなかに張り巡らされたさまざまな仕掛け、世界の重層性に気づかされ、胸の中に何かが動き始めるのを感じた。
 その土地の力。
 「葛の葉」でも感じた。でもそれが、近代的な親子の情に還元できるものではないように、玉手御前の思いは、近代的自我の恋愛や忠義といった感情としてよりも、より原初的な、より深層の意識の中に眠るものを感じさせる。それが存在の裂け目からほとばしり出たとき、共感と反発の入り混じったどうともいえない不可思議な思いに捕われる。
 今回は玉手御前の人物論より、作品の背景に注目しよう。「万代池の段」の背景は四天王寺の南側、伽藍のなかでひときわ高く五重の塔がそびえる。手前に俊徳丸の藁小屋と万代池。下手側にはのどかな田畑が広がる。季節は如月といわれる。
 これは写実ではなく、いくつかの意味を持った小宇宙である。その要素を1つずつ解きほぐしてみよう。

(1)四天王寺という場――救いの重層性
 まず幕開き、背景に四天王寺の伽藍と、その中にひときわ高く五重塔がそびえる。四天王寺は西暦593年、聖徳太子が蘇我氏とともに物部氏と争ったその戦いの折に四天王に祈願し勝利を得た感謝に建てられたと言われる。その伽藍配置は「四天王寺式伽藍配置」といわれ、南から北へ向かって中門、五重塔、金堂、講堂を一直線に並べ、それを回廊が囲む形式で、日本では最も古い建築様式の一つである。つまり四天王寺の南北の軸は、こうした仏教における聖地としての意味を示している。
 しかしこの寺にとってより重要なのは、西の方角である。四天王寺の主要な入り口は今も西門側であり、そこには寺でありながら石の鳥居がある。鳥居は本来聖地結界の四門を意味する。そしてその上の扁額には、「釈迦如来転法輪処当極楽土東門中心」すなわち「ここが極楽の東門の中心」の意を示す。
 石の鳥居のそばに「大日本国仏法最初の地」と書かれ、その奥に西門。この門には「転法輪」が付けられており、それを回すことでこの門は西方浄土、極楽へと向かっているものと意識された。昔はこの坂を下りたあたりがもう海であった。ここはまさに「極楽浄土に最も近い寺」でありそれゆえに救いにダイレクトに関わる場所として、修行者はここから極楽浄土に向けて実際に船出した。しかしそれは、この世で戻ることのない自殺行である。また、たびたび施行が行われた。なぜならこの西門の外にある引声堂のあたりは、違例者(つまりらい病などで一般社会から疎外された者、アウトサイダー)たちの住処であったからである。仏のため、来世を思って功徳を積む、あるいは善行を行うことは、いまよりもっと社会に受け入れられた行為であったに違いない。そしてもう1つの意味は、聖と俗、清さと穢れが近接するというだけでなく、人々の憧れる極楽浄土には、こうした社会から疎外された者たちが最も近いところにいることの比喩でもある。
 この四天王寺という寺の持つメッセージが、この『合邦』全体の物語の基調をなしている。それは、この世で疎外された者、一見「穢れ」と見られる者が、実は仏の側からは最も救いに近いということである。
 それは、この場面での合邦道心の説法にも出ている。合邦は「アノ芝居を見やしやませ、実方があれば敵役もある。鬼があればこそ仏もある。畢竟地獄は極楽の出店。・・さすれば地獄極楽は元来一つ世帯なり、善悪邪正不二という仏の教えはコレコノ天王寺」と語る。人間の目に悪と見えるものが実は悪であるとは限らない。この時代、こうした病による違例者は、前世や過去の業の結果と見られた。俊徳丸は「もとより神にも仏にも憎まれ果てし病の身、出離の絆は煩悩道、綺羅ではいつか仏意に至らん」と語る。こうした打ち捨てられたアウトサイダーの孤独、絶望こそが仏の悟りに近づくことである。そしてそれは、「合邦庵室」の玉手御前の、一見邪恋と見えるものが実は忠義であったという逆転に結びつく。四天王寺の仏教には、こうした包容性と弁証法ともいうべき両義性が含まれている。
 ちなみに、四天王寺近辺は今日でも青シートのテント村、ダンボールハウスが密集する地域である。そこに住む現代のホームレスたちはこの日本で最も救いに近い人々であろうか。
 さらに、実在の万代池(まんだいいけ)は、この位置から約4キロ南の熊野街道沿いにある1周700メートルほどの池である。ここには昔、人を悩ます魔物が住んでおり聖徳太子が四天王寺から人を遣わし魔物を鎮めるためにお経を読ませた。その後再び魔物が現れることはなかったという。その時のお経が曼荼羅経であったことから曼荼羅池とよびようになり、これが訛って万代池になったという言い伝えがある。ただここを「ばんだいいけ」と発音するのはなぜだろう。これは実在の池でないとの意味か。いずれにせよ聖徳太子が示す仏法の力による救いというモチーフが、実際には離れたこの池と四天王寺を一続きの世界としたのであろう。
 四天王寺の西側はかなり急な坂であり、増井、玉出といった天王寺の七名水が位置する。ここを下ったところ、現在は松屋町筋の南端、地名でいえば逢坂に、合邦が辻があり、ここの閻魔堂は聖徳太子の開基とされる。この地名は聖徳太子が物部守屋と法論を交わしたことに由来する名称といわれている。明治初年に道路拡張がなされたおり、現在の融通念仏宗西方寺境内に移され、昭和20年3月13日に空襲で消失し、信者たちによって再興されたものである。玉手御前の本名はお辻、つまり合邦に象徴される善と悪、来世と現世、極楽と地獄の行き交う「辻」である。
 だが、そこにもう一つの要素が加わる。四天王寺は仏による救済の世界であるが、熊野街道はもう一つの、神と仏が一つになった信仰による「死と再生の道」でもある。熊野本宮の主神の家都美御子神は阿弥陀如来、新宮の速玉神は薬師如来、那智の牟須美神は千手観音を本地とするとされ、本宮は西方極楽浄土、新宮は東方浄瑠璃浄土、那智は南方補陀落(ふだらく)浄土の地であると考えられ、熊野全体が浄土の地であるとみなされるようになった。本宮極楽浄土が来世の救済を、新宮浄瑠璃浄土が過去世の罪悪の除去を、那智補陀落浄土が現世の利益をうけもつという三位一体の信仰システムが形作られた。
 とくに阿弥陀如来を本地とし、阿弥陀の極楽浄土とみなされ本宮の社殿は「証誠殿(念仏者の極楽往生を証明する社殿の意)」と呼ばれ、そこに参詣すれば浄土往生が確実になるとされた。それゆえ後白河院初め多くの貴人たちはこぞって熊野をめざし、「蟻の熊野詣」といわれる状況であったという。しかもそれは四天王寺に比べはるかに困難な道のりであり、途中山中に倒れる者も少なくなかった。それゆえにこそ熊野詣は、「清め」の意味をより強く持ち、また困難な道をたどり聖地に到達することで、古い自己の死と新しい命を得てよみがえることを意味した。四天王寺がそれ自体極楽浄土の「東門中心」であり救いの中心で、違例者たちを受け入れる場であるのに対し、熊野は救いに至る厳しい過程を示すのではないか。
 さらにその「死と再生」というモチーフは、玉手御前の死が俊徳丸に新しい命を与えるという設定に関わっている。
 つまり、四天王寺と万代池を一つの背景に置いたのは、そこに仏の救済と、それに至る困難な道のりを通しての「死と再生」を意味する小宇宙として設定したのではないだろうか。『摂州合邦辻』の全体は、河内の国高安からこの四天王寺界隈までを含んでいるが、その目指すところは、四天王寺に代表される浄土における救済のためには、一見非条理とも見える人間の困難なわざが必要であること、そんな業深い人間が絡まり合う関係の中で、善悪の逆転の中に救いがもたらされることである。この不可思議さを納得させるのは理性の論理ではなく、四天王寺を中心とするこの地自体が象徴する救済の事実である。

(2)謡曲・説経節・浄瑠璃
  さらにこの場面には、説経や能などの先行作のモチーフが多く取り入れられている。
 たとえば盲目の俊徳丸が、今日は彼岸であると、手を合わせ西方を拝む場面がある。これは「日想観」といい太陽の沈む西に向かい瞑目して阿弥陀仏のおわす極楽浄土を心に思い浮かべるという行である。
 この場面のモチーフは、能「弱法師」に見られる。能「弱法師」は、河内の国高安左衛門之丞通俊が四天王寺での施行のおり、かつて讒言を受けて追放し、いまは盲目となったその息子俊徳丸と再会するという物語である。その中で俊徳丸は日想観をし、目は見えなくとも心に描く夕べの風景を本当に見ているかのように語る。
 日想観自体はかなり古くから行われ、平安時代には熊野詣の途上、京から最初に宿をとるこのあたりで日想観をしたという。なぜ人々がここの夕陽を特別に思ったかといえば、それは彼岸にちょうど明石海峡に日が沈むからではないか、と一心寺住職の高口恭行氏は言う。
 それは古代の人々に、はるかな浄土を思い浮かべるに壮大な風景だったのではないだろうか。それと同時に、俊徳丸がもはや現世ではなく浄土に望みをおく求道者であることを印象付けられる場面である。
 また、俊徳丸が藁小屋で乞食生活を送っているところへ、許婚の浅香姫が俊徳丸を尋ねてやってくる。彼女は目の前にその人がいるのに気づかず、臭いのため顔をそむけている。この場面は、説経の「信徳丸」の場面と重なる。継母の呪いのために家を追われたしんとく丸が河内高安から四天王寺の南側のこうした違例者の集落に身を寄せ、一度は熊野へ向かおうとするが、恋人である和泉の国近木の庄蔭山長者の娘乙姫の実家に助けを求めるがかえって人の口の端にのぼり、引き返して引声堂の下に飢え死に覚悟でこもる。乙姫は一度は熊野路を尋ねるが、そこに見出せず藤代から四天王寺までもどって再会するのである。現在の日根野から紀州路へ、そこからさらに天王寺へと、熊野への道を逆にたどる彼女は、救いから遠く離れていくようなしんとく丸を救うため、すさまじい行動力を見せる。
 さらに浅香姫が俊徳丸を車に乗せて引くというのは、説経節「小栗判官」に出てくる場面を連想させる。
 餓鬼のようになって蘇生した小栗を、いまは下働きに身をやつした照手姫が、土車にのせて「えいさらえい」と引く。彼の胸札に、「一引き引いたは千僧供養、二引き引いたは万僧供養」とあるのを見て、本人と知らず亡き小栗の供養のためにと、熊野に向けて引くのである。照手姫の献身と勇気と信仰が、小栗を救うのである。ここでは浅香姫は合邦に指示されて、俊徳丸を載せた車を西に向けて引く。西門を出て坂を下りた先に合邦が辻があるからだが、同時に女性に助けられて西方浄土へと向かう意味を暗に含んでいるのではないだろうか。
 この二つのモチーフは、人にかしづかれる高貴の姫が、自ら進んで愛する者を捜し求め、決断し、苦難もいとわずはるばると旅をする、その困難を引き受ける、そうした意志的な女性像がうかがわれる。浅香姫は入平に守られながらも、そうした苦難を引き受けて戦う女性であり、そうした点で玉手御前と対の関係にある。この二人の女性の献身が、俊徳丸の救いの源であることが明確になる。浅香姫は玉手御前に蹴られ殴られるために出てくるのではない。彼女もまた、救いに不可欠な働き人なのである。

 「物語」とは、近代において、人が自分自身の中に自ら統一性を見出し、自分の生になんらかの方向づけを与えることをいう。
 それは中世では個人の語りでなく集団、共同体の語りであった。この全体が、四天王寺を中心とした中世における浄土への憧れを1つの世界とする。死から再生を願う中世の人々の物語の延長に、この浄瑠璃ははからずも名を与え、個人と個人ならぬ土地の意識の中に眠るものを掘り起こし、描いてみせたのである。中世においては、個人は個人であると同時にその時代であり、共同体である。個人の名は、いくつもの経験と願いの積み重なりのうえに置かれた記号である。
 しかし文楽における人物は、記号ではなく比類ない一つの個性として存在するようになった。
 たとえば俊徳丸は、継母に呪いを受けて家を出たのではなく、家督争いと自分の病に絶望し、それらから解放された新しい生き方を求める求道者であり、浅香姫は自らの意志で夫を追い、苦難もいとわず共に生きようとする魂ある女性であり、入平は浅香姫を守ろうとする忠実で賢明な奴であった。簑太郎、清之助、玉女らの遣う人形は、そうした近代的な人物としての輪郭と必然性、清やかな強さともいうべきものを持っていた。それは文楽として演じることの中から生まれてきた確かなリアリティであり、明白に中世の物語と区別されるものである。
 同様に、文雀の玉手御前は、武士の娘としての誇りと強さが印象的。だからこそ、玉手自身、本当に情痴に身を焼いて俊徳を追うわけにはいかなかった。それは家を思い夫を思う、「家刀自」の精神であった。だがその中に、俊徳丸への思いがなかったとは言い切れまい。許されてはならない思い、だからこそ、黙ってその人のために死ぬことが唯一の道であるような、自己犠牲。玉手はまさしく「廉直を立て通した」合邦の娘であり武士の鑑と称せられる青砥左衛門藤綱の系列につながるのである。嶋大夫のくどきのみごとさ、したたるような色気と、その内にほんのわずかに匂わせる玉手の本心。それに対し住大夫の合邦の嘆きは、娘を殺さねばならなかった父の嘆きであると同時に、坊主が自ら殺生戒を犯す、人間の悲しさとやりきれなさを痛ましく胸に響かせた。それは確かに、いまの私たちの世界に理解可能なように、かの物語を再現する試みであった。
 しかし、そうした人間的真実の描写をもってしても、まだ語りきれないものが残る。それを私たちは、心の一隅に刻みつけ、その名を求めてまた歩みだすのだ。
 
 (3)物語と出会う
 私は限りなくこの「合邦」に心引かれるものを感じる。
 大阪弁でしか自分の心の感情が表現できない私にとって、この物語は自分の心の言葉を捜すように、感じることから始まる物語であった。そして無数の伝承の中から、人々の求めた主題を明らかになってくるにつれ、心がさわいだ。今回の舞台は、そうした文楽を見る心の密度を高めてくれた。だが、それは言葉で理解できるものでなく、理解できないものと知りつつそれを深い共感をもって受け入れ、そこに共におることの大切さを教えてくれたように思う。
 「一谷嫩軍記」も、今回は見られなかったが、「ひらかな盛衰記」も、そうした日本の伝統的な物語の別の形を教えてくれたような気がする。
 「熊谷陣屋」の、あの吉田玉男遣うところの熊谷次郎直実。武士の忠義の論理の惨さ、それを自分一人の胸に収めて嘆くことも許されぬ悲しみ。十九大夫と咲大夫の浄瑠璃の、哀切などという言葉が消し飛んでしまいそうな骨太さ。清治、富助の、心の奥の一箇所まで正確に弾き当てるとでもいえるような音色。
 この悲劇の重さと、対照的な「釣女」の喜劇。これもまた、西宮恵比寿神社を舞台に、「名に大蔵や鷺流」を伝える狂言から生み出されたものである。その軽妙な笑いの楽しみもまた、文楽の一つの姿である。笑うことにも泣くことにも、この土地では根拠がある。大阪に生まれ育ち、生きることはその「根」と無関係ではいられない。いな、言葉はそうした根のなかから生まれてくるのだ。そして物語ることも、残すべき意味も。「合邦」の深層のなかに、わたしたちが生きているこの世界の意味が、幾重にも重なった先祖から受け継いだ世界の意味から生まれていることをたどっていく。その先に、基底はあるのだろうか。
 私は何を見出そうとするのか。幾重にも重なった先人の思いの中から、埋もれた珠玉を掘り当てること。洋の東西を問わず、一筋なる精神の軌跡を見出すこと。彼らの物語る行為のうちにあるものは、それを共通の場に引き出し、再創造する試みであり、それは私たちの「根」を探すことの試みであるに違いない。