時は縮まる――2003年1月公演によせて

森田美芽

 文楽を見て「時間」に対する意識が敏感になったことに気づく。2003年1月公演は、正月のめでたさより、舞台に流れる時の充実の様々な形にため息をつく舞台の数々であった。
 「祇園祭礼信仰記」の立端場「金閣寺」(本来は「碁立」と呼ぶべきだろう。「金閣寺」はこの段全体の総称ではないだろうか。前回の呂大夫・富助のときもこう呼ばれていた)。  意識が吸い込まれるかと思った。
 その「碁立」の中の、めくるめく時の凝縮の中へ。
 もう8年も正月の文楽を見ているが、こんな風に感じたのは初めてだ。45分が長いとか短いとか、そんな感覚も無かった。弛緩なく織り成される語り、底から響く詞の力強さ、詞から詞への微妙な間と呼吸。言葉が時間を作る。語りが時間とともに作り出され、積み重なる。ただ聞くということが、舞台に向かってその時の只中にいるということが、これほど深い充実をもたらすとは。そして鶴沢寛治の三味線の、どこにも無駄な力の入らない自然さのなかの、はっとするような色気や華やぎ、馥郁たる香りときらめきが、その時の間を自在に駆け抜けていくのが見えるような気がした。

 今思うと不思議なばかりだ。あの時間はどこから来たのだろう。床の真正面で聞くという幸運もさることながら、その最も良い日に私は出会ったのではないか。
 そしてその後の舞台もまた素晴らしかった。十九大夫・清治の「爪先鼠」。こうした構えの大きい時代物の浄瑠璃を納得させる語りと弾き。そしてなぜか、清治の三味線を聞きながら、この人の音色がどれほどの内面性の豊かさと広がりをたたえて余りあるものとなるかを思った。可能性というのはおこがましい。今ある充実した音の中に、さらなる音の広がりを内包している稀有の人であると。後、文字久大夫、宗助。文字久大夫は詞が強くしっかりとしてきた。課題は千秋楽まで安定した声で語ることであろうが、この人の本来のよさが出てきたように思う。宗助は的確で聡明な音作り。
 人形では第一に、文雀の雪姫の格と人妻の美しさ、強さ。桜の木に縛られても、それに負けない意志の強さと気高さを思わせる。代役なれど玉女の松永大膳のスケール大きい悪の強さ、玉輝の鬼藤太も抜け目ない部下のキャラクター、文吾の此下東吉の知恵者らしい二枚目ぶり、玉也の加藤正清、鬼若かしらとは少しこの人の持味と違うかと思ったが、やはり隙のない遣い振り。紋豊の直信、為所は少なくとも、悲劇の二枚目の色気を寸感的に表現する。亀次の慶寿院、この人も代役だが、気品あるとりなしが印象的。

 「壺坂観音霊験記」この何度も見た狂言には、繰り返しの中に生まれる新たな輝きを発見した。咲甫大夫、清志郎の「土佐町松原」。ほのかな春日の暖かさ、のどかさを感じさせる。咲甫大夫は3年ほど前にも鑑賞教室で演じ、手に入っている。しかもお里が沢市を思って涙するところなどをじっくり聞かせるようになった。清志郎の音も生き生きとして伸びやか。紋臣はじめ、つめ人形のやり取りも楽しい。この場はあまり意味がないというが、こうして理屈抜きにほっとさせられるところが嬉しい。

 「沢市内」伊達大夫、喜左衛門。「夢が浮世か浮世が夢か・・」という語り出しの存在感、洗濯物をトントンと打つ音にこめられた生活の匂い、そこに現れる時の隔たりが、実にさまざまな感覚を呼び起こし広がっていく。その背景に浮かび上がる、簔太郎のお里と玉女の沢市に、新しい人物像を感じた。
 お里は真心を疑われて本気で怒っている。なぜ彼女は沢市を愛したか。尊敬できない男を愛したりするような女ではない。沢市の少年のような純粋さ、人を傷つけまいとする心根のやさしさにこそ愛したのだ。自分の弱さを暴力やらでごまかすのでなく、自ら身を引こうとするほどの潔さと思いやりある人柄を愛したのだ。
 沢市の嘆き、「どうぞ花が咲かしたいな」が痛く響く。沢市がこの場の始まりからすでに覚悟を定めていたことが感じられる。愚直なまでの沢市の心。だから沢市の死を知ってのお里の嘆きの深さも納得できる。谷底での観音、玉勢はゆっくりと心得ある遣い方。二人の喜びの万才は錦糸とツレ弾きの喜一朗。歯切れよく勢いがある。この全体を住大夫の貫録が引き締め、主題を浮き彫りにする。真の夫婦愛とは古くて新しい物語であると。

 「団子売」短い景事だが、松香大夫・三輪大夫を中心に、おめでたいというだけではすまない迫力に満ちたものを聞かせてくれた。三味線は団七、弥三郎、団吾、清馗、龍爾らの華やかで瑞々しい合奏。杵造の玉志は器用なところを見せ、お臼の清三郎はすっきりと情ある風情。ここには、はまりきれないほどのものを持つ力の充溢。

 「花競四季寿」凝縮される四季の移ろい、雅趣と風情、廻りくる時への日本人の心の愛着を、咲大夫をはじめとする大夫陣の的確な語りが偲ばせる。わけても咲大夫の語りの風格と豊かさは、時と場をその場に造りあげ、感性を立ち上らせるような力がある。春の「万才」ののどけさ、「海女」は夏の恋の珍しさ。深い藍色の闇の中から月、波、岩の立ち現れるに従い、言葉は波のように寄せくる。光と場面と詞の一つになった感覚に陶然となった。
 秋の「関寺小町」の低い嘆き。百歳の老婆には、過ぎ去った時とは何であっただろうか。
 「鷺娘」の幻想的な春への思い。それぞれの季節の主題を明確に描き出す。二枚目の千歳大夫は負けじと場を広げ、貴大夫はしっかりと受けて風情を作り、南都大夫、新大夫、睦大夫、相子大夫らは優れたハーモニーで語りを支える。三味線は富助以下燕二郎、喜一朗、龍聿、寛太郎らの地力を感じさせる。富助は、この場に時の厳しさと緊張感を通してくれたように思う。
 人形では文司、簔二郎のコンビが明るく溌剌と楽しませてくれ、久しぶりの一暢はやや緊張が見えたが蛸を相手の振る舞いなど、卓越した存在感を与える。文雀の関寺小町は、百年の時の残酷さとユーモラスな風情を、これこそ能とも舞踊とも異なる人形での表現で完成した。和生の鷺娘は、鷺というより娘のキャラクターが強く出ている。雪の冷たさが清々しさとなり、一筋の思いに連なるような恋の幻想。
 「ひばり山姫捨松」冒頭、浮舟・桐の谷のやりとりの面白さ。共に老女形のかしらながら、浮舟がやや年嵩と見えた。清之助は芯の通った女丈夫で、玉英は始め敵と見せかけて姫を救うあたり芸達者なところを見せる。紋寿の中将姫の清らかさ、気高さ。思わず感情移入してしまう。客席までその寒さが伝わってくる。文吾の岩根御前の憎たらしいこと。亀次の大弐広嗣は結局小心な悪党と見えた。幸助、清五郎の奴も為所を心得た遣い方。玉幸の豊成卿、父の大きさはあるが不安を感じる。津駒大夫・清友もこうした場を盛り上げるが、冒頭の2人のやりとりでの二人の描き分けが少し分りにくかったように思う。復帰した嶋大夫はやはりこの人ならでは、清介のサポートの確かさ、清丈も胡弓が上達した。全体として床と人形のバランスのとれた、非常にまとまった舞台となった。

 「廓文章」極め付けの夕霧・伊左衛門。たわいもない痴話喧嘩のような二人のやりとりの密度と色気に、もはや何を語る必要もない。しかしそれだけではない。冒頭の餅つき、簔紫郎の仲居お松がもうけ役。お鶴とお亀は、鼻動きとお福の違いをもう少し面白く出してもよいのではないか。勘弥・勘緑の太神楽は、この二人の息の合った所を楽しませてくれる。口は呂勢大夫、清太郎にツレ清馗。呂勢大夫は伸びやかではんなりした語り口だが、やはり似た首の語り分けに意を用いたい。切、綱大夫、清二郎、ツレ団吾。その赤紫の肩衣のごとく薫り高き浄瑠璃の冴。

  文楽を見て、それがまっすぐに心に響くときと、なにかそれがひどく遠く感じられるときがある。見ていても見えない、聞いていても聞こえない時がある。だからこそその何かが見出せたときは類ない幸福である。見えるというのは私の業ではない。正月公演のいくつかはすでに見たことのある演目である。それらは既に心にある範型を持っている。それがまた新しい演じ手によって新しい形を作られる。時が私の中の経験を豊かに変容する。それが私の感覚を作り、目を見えるようにし、耳を聞こえるようにしているのだと教えられた。

 「時は縮まっている。」人はその生まれた日から死に向かって近づいている。私も終わりの日数を数えなければならない。残りの日で自分に何ができるか、何を残すか、何を引き継ぐかを明らかにせねばならない。しかしそれは行き当たりばったりにすることでも、自分の作った計画に従って人生を動かすことでもない。死に向かって歩むわれわれが、真実な出会いと日々の努力を積み重ねるところにだけ生まれる、真実な時の充実が私たちの生きる意味を作り出し、それが人に与える力となるのだと。文楽の芸の中に具現される時の高みと深みは、その尊さをいつも確認させ、私たちを励ましてくれる。時は失うのでない、積まれているのだと。