「累物語」異聞――2002年夏公演によせて

森田美芽

 伝統芸能にいくつかの系譜があり、その中の「かさね」は、女の顔が醜くなったために、 雨の降りしきる土手で女は鎌で無残に殺されるという伝承を持っている。
 この物語には、 出世を願う男の身勝手、もとは誰よりも美しかったゆえに、死霊の恨みで顔が醜くなり、 片足を引きずるようになった女の変貌、鎌を使った殺しというモチーフがあり、歌舞伎で は当代の坂東玉三郎があまりにも有名である。
 これに対し、文楽の「かさね」は、男の誠実、女の献身を軸に、にもかかわらず悲劇に いたるという点で興味深い。
 「薫樹累物語」を2度見た。充実した舞台である。これを見ることのできた幸いと、に もかかわらず客席の寂しさとのアンバランスがなんともいえない。

 「豆腐屋の段」掛合で語る。松香大夫が絹川谷蔵、三輪大夫がかさね、津国大夫が兄三 婦、咲甫大夫が高尾の亡霊と講中、つばさ大夫が講中。三味線のシンは団七、ツレが団吾、 龍爾。バランスが取れ、それぞれによい役場を作り出す。絹川の侠客としての志、三婦も また市井の男伊達。かさねは恋に一途な純情さと、自分を好きにならないはずがない、と いう自信。
 力士の絹川が、主君のためと傾城高尾を殺す。追われている彼が逃げ込んだのは、高尾 の兄と妹の家で、まさに高尾の供養の真っ最中。兄三婦はそれと気づくが、かさねはかつ て自分を助けてくれた人とどうしても添わせてくれという。その一途さに兄も承諾するが、 殺された姉高尾の亡霊が現れ、かさねの顔を醜く変えてしまう。
 文吾の絹川、力強さと無骨、一度約束したからは、顔かたちが変わっても、という男の 誠実を匂わせる大きさ。簑太郎の三婦、検非違使かしらの沈着と男気を現す。的確な人物 像に迫る。文雀のかさね、かさねは自分の美貌を意識している。うぬぼれとも見える。高 尾の亡霊を遣うのは清三郎。高尾の怨念を一瞬で知らせる強さがある。
 団七はきめ細やかに人物の心の後をたどる丁寧な三味線で、団吾も津国によく合わせて いっているが、もう少し力強さのほしい場面もある。なお、初舞台の龍爾は、舞台度胸も よく、咲甫大夫のパートをかなり一人で弾いたが、よくがんばっていた。その初々しさ、 さわやかさを応援したい。

 「埴生村の段」前が英大夫、喜左衛門。三大身売りの前場。埴生村に隠棲する与右衛門・ かさね。慣れない暮らしを肩寄せ合って営む夫婦愛。かさねの嫉妬。近所の衆の心安さ。 勘緑・和右は短いながら人物に存在感を感じさせる。玉女の金五郎、与右衛門を追い詰め ていく呼吸が見事。勘寿の女郎屋亭主、軽妙でしたたか。夫のために身売りを決意するか さねの覚悟と貞女ぶり。ところが、かさねは自分の顔が醜くなっていることに気づいてい ない。そこに滑稽さ、なんともいえない皮肉がある。
 切、綱大夫、清二郎。後半、かさねが身売りの意思を女郎屋に伝え、笑い飛ばされたこ とで、初めて彼女は自分の醜さを知る。好意の第三者の残酷さ。

 「土橋」の前は文字久・宗助。文字久は言葉が強くなった。宗助はバランスよい響き。 金五郎に引かれての歌潟姫の美しさ。先々月の苅屋姫となりかたちは同じはずなのに、ま ったく別人であると瞬間的に悟らせる。しかしなぜ彼女が都にありながら下総まではるば るやってきたか、今ひとつ納得できない。
 稲村にかくれてかさねが金五郎と歌潟姫の会話を聞き、嫉妬に狂う。どうして自分をこ こまで愛してくれた与右衛門の真実を理解できないのか、そこにかさねという女の悲しさ を見る。それは男の論理に過ぎない、と彼女は主張しているのだ。
 彼女は義理からではなく、心から愛してほしいのだ。彼女には愛される自信があった。「の しほ」に匹敵する美貌が。ところがそれが失われたことを知ったとき、彼女は夫に愛され る自信を失った。そして歌潟姫の若さと美貌を前にして、自分の存在が崩れていくような 思いをした。なぜ与右衛門を信じられないのか。自分が美しくないにもかかわらず美しい という思い込みを支えてくれた与右衛門。だが彼女の心に忍び寄ったのは、自分より美し い姫を迎えるという与右衛門の言葉。もし彼女が美しくなかったなら、ここまで美しさに こだわることはなかったかもしれない。彼女は美しい自分だけを信じていた。だからそれ が失われたことを知ったとき、自分を恥じて死のうとした。
 彼女の愛は自己愛に過ぎなかった。美しい自分を、その自分を愛してくれる者への愛に 過ぎなかった。その彼女をもうひとつ突き動かしたのは、序幕に登場した、姉、高尾の亡 霊である。彼女は姉の敵を愛していた。姉の恨みを知りつつ、姉を殺した男を愛した。姉 妹の情よりも、恋を選んだ。しかしここで思いは姉とひとつになり、姉の恨みと二重化さ れた思いが彼女の形相を変えた。段切れ、本水を使っての立ち回りは迫力満点だが、この かさねの恨みと与右衛門の無念、人からはおそらく、醜くなった女房を殺したに過ぎない といわれるであろう与右衛門の無念さを描くカタルシスに今ひとつ届かなかった気がする。
 しかし切の十九大夫、清治は、その迫力、はっとするようなかさねの思いの変化の妙を聞 かせてくれた。

 第三部の玉男・吉田簑助の「曽根崎心中」は、どれひとつとっても欠けたところのあって はならない、珠玉の物語であった。とりわけ簑助のお初の、圧倒的な存在感に打たれた。 先月、高弟の簑太郎、清之助のお初を見て、それぞれに納得させられたが、正直言って、 これはもはや世界が違うのだ。簑太郎も清之助も美しく、見事な解釈と人物像を納得させ たが、簑助のそれは、もはや何が違うとか、どこがよいとかの分析を超えて、そこにお初 という人物を存在させてしまう。そう、徹頭徹尾「お初」に他ならない人物が、そこにい る。そのことにまずため息をつく。お初を演じるとか遣うというレベルでない。お初はこ れ以外に考えられないというあり方なのだ。そのすべての場面、指先まで、お初という人 間が生きていたら、そうでしかありえないような、そういう動き方なのだ。
 対する玉男の徳兵衛も同様。男気も、やさしさも、ちょっと気を持たせるところも、主 人に向かってお初のことをどう告げたか、すべて想像できるほどなのだ。
 この二人による曽根崎を見ることができたという幸福をひたすら神に感謝せざるをえない ほどに。
 床は、「生玉」が伊達大夫、富助。伊達大夫の語りもそう。どこにも余分な力の入らない、 それでいて人物の心の動きまで、分析するのでなく納得させるような、自然体の語り。富 助の三味線は、色鮮やかに、華やぎある雰囲気と、人物の心の動きに沿った音色を聞かせ てくれる。
 「天満屋」は住大夫、錦糸。隅々まで、全てに目配りの行き届いた、それでいて呼吸す るように自然な「天満屋」を聞かせてもらった。錦糸の音色は、また一段と深く艶やかに 響く。
 「道行」は、お初を咲大夫、徳兵衛を千歳大夫、そして南都大夫、三味線は寛治、弥三 郎、喜一朗ら。咲大夫のお初というのは珍しいが、余裕を感じる。千歳大夫の徳兵衛は、 高音部に課題を残すが、誠実な人物像を匂わせる出来であった。寛治の率いる三味線は、 この場面にふさわしい悲劇的な美しさの要求に十分答えた。
 昼の「薫樹累物語」と夜の「曽根崎心中」を比べてみると、人が何に感動するのかがよ くわかる。全体としての出来が悪いというのではない。だが、「累物語」には救いがなさす ぎる。たとえば、歌潟姫はあのまま死んでしまったのかと思う人が大半であろう。(実はお 守りの力で助かるのだが)そしてあまりにも累がエゴイスティックに見えて感情移入がし にくい。
 それに対し「曽根崎」は、来世が希望となるカタルシスが、そこに至る純愛の過 程が見事に表現されているだけでなく、観客はそこに同調し、お初の気持ちと同化し、自 然にお初を応援したくなり、二人が重なり合って倒れると、ほっとするような気持ちにな る。舞台と客席がひとつになるという現象が起こるのである。
 私は文楽の舞台で、手抜きとか、弛緩とかを感じたことがない。
 舞台の隅々、介錯の一 人一人に至るまで、ひとつの緊張感が常に支配している。彼らのうちには、見えざる一つ の秩序が支配しており、無言のまま舞台を動かし、舞台に携わる全員が、一糸乱れずその 秩序に従っている。それが文楽のすごさであると思う。彼らがたとえ未熟ではあっても、 その芸の一つ一つに尊敬の念を抱かざるを得ないのはそのためである。
 ひとつの舞台を作 るために、全員が志をひとつにして、そのベストを尽くしている。それは舞台人としての 彼らの本領であると思う。
 しかしそれでも、観客の側からいえば、感動できる舞台とそう でない舞台が生じてくる。それが物語の質の問題であると思う。だから企画・製作は難しい というのは理解できる。「曽根崎」のような作品ばかりではない。むしろ、今の基準で言え ば、到底ついていけないような内容の作品も多い。だからといって、文楽は活きた化石で はない。脚本の質と、芸の美しさと、技芸員たちの努力という出会いが起こって、それが 最高潮に達するとき、計算ではない感動が生じる。
 それが文楽を見る喜びであろう。だか らこそ、彼らが命がけで演じているその舞台の美しさを、現代の私たちが見出せるものを、 一つ一つ、珠玉を拾うように見出していけたらと私は願う。それができる、それを見出せ ることが、文楽が今日の芸術であることの意義だと思う。