3つの物語――「勧進帳」再発見(南座公演)

南座公演の「勧進帳」は、中堅・若手がいま、与えられている課題をどのようにこえていくかを確かめることのできた舞台であった。彼らのうちにみなぎる力と、挑戦への思いが、この一期一会の舞台を作り出した。

この3つの物語
の出会いの要は、弁慶である。弁慶の性格にリアリティが感じられること、一見無理な設定でも、それを納得させるなにかを感じさせること。この弁慶は、玉女(人形)の、次代の立役としての試金石でもあった。

玉女は、延年の舞など、洒脱なおもしろみやゆとりには欠けるかもしれないが、六方の引き込みの迫力といい、弁慶の大きさ、立役の風格を十分に感じさせる好演であった。

英の弁慶(太夫)。……富樫ならば何の問題もなかっただろう。だが、最も苦しい音域で、たたみかけるような立詞が続く弁慶。息の使い方、声の使い方、30年を超えるキャリアをもってしても、困難な課題であったと思う。しかし、……とりわけ津駒の富樫との丁々発止の問答の、息もつかせぬ迫力を、忘れることができない。三段目語りとしてのステップを、彼は、一つ越えることができた。

清治の三味線が、舞台の全体を率いる。英大夫の言葉を借りれば、「磐石の間」。名手清治なればこそ、初役の太夫も人形も、安心して力を出し切ることができたと思う。

森田美芽

 「勧進帳」とは、なんと美しいのだろう。登場人物は男ばかり、魅力的な色恋も目を見 張るような派手な仕掛けもない。しかし、久しぶりにそのおもしろさを再発見した。
 20 01年7月、この南座公演の「勧進帳」は、中堅・若手がいま、与えられている課題をど のようにこえていくかを確かめることのできた舞台であった。彼らのうちにみなぎる力と、 挑戦への思いが、この一期一会の舞台を作り出した。

 「勧進帳」は、3つの物語の出会いである。
 一度は英雄とされながら、兄に裏切られ落剥 の身となった悲劇の武将義経の物語。
 悲運の主義経に忠節を尽くす弁慶の物語。
 そしてそ の主従との出会いで、生涯一度の職務命令違反を犯す官吏、富樫の物語。
 この3つの物語 の出会いの要は、弁慶である。弁慶の性格にリアリティが感じられること、一見無理な設 定でも、それを納得させるなにかを感じさせること。この弁慶は、玉女の、次代の立役と しての試金石でもあったと思う。

 まず簑太郎の富樫の登場。人物の骨格、人柄、一目でわからせる要を得た遣い振り。さ わやかな出。知、勇ともに優れ、心ある武将の風情を描き出す。人形の遣い方が大きい。
 清之助の義経。出てきただけで、義経の孤独が痛いほど伝わってくる。
 兄に裏切られ、 部下たちをこのように苦労させる、主である苦悩とそれを担う孤独。それでいて、若々し い色気を失っていない。清之助は気品ある若武者のこうした悲しみを、どうしてこうも的 確に表現できるのだろう。花道の引き込みも、富樫に会釈し、はっとして笠で顔を隠す仕 草も美しい。

 玉女の弁慶は、一言で言えば、義経の信頼に応えようとする誠実さを第一に出した弁慶 である。
 富樫は、義経を哀れと思ったからでなく、この弁慶の、心で泣きながら主を杖で 打つ、それほどまでの忠節に心を揺さぶられたのだ。
 もしこの弁慶に出会わなかったら、 彼は有能な官吏として、忠実に職務を果たしはするが、面白みのない人物として終わった に違いない。
 あるいは、富樫自身も、心ひそかに、義経主従に惹かれていたのかもしれな い。
 自分を認めず、こんな田舎に埋もれさせている無能な上司への反抗の気持ちを持った のかもしれない。
 弁慶の、理屈も計算もない、ひたすらな献身と純情が、彼にそうした気 持ちを起こさせた。それを納得させる弁慶であった。
 無論、まだ延年の舞など、洒脱なお もしろみやゆとりには欠けるかもしれないが、六方の引き込みの迫力といい、弁慶の大き さ、立役の風格を十分に感じさせる好演であった。
 左の玉志、足の玉佳も健闘した。

 英の弁慶。
 今回の彼の課題は、声で弁慶の「男」を感じさせること。声は驚くほど真実 を表わす。
 十分な声量、太く強い声を出す瞬発力と持久力、そして弁慶の一途な忠節を表 現すること、富樫ならば何の問題もなかっただろう。
 だが、最も苦しい音域で、たたみか けるような立詞が続く弁慶。
 息の使い方、声の使い方、30年を超えるキャリアをもってし ても、困難な課題であったと思う。

 しかし、迫ってきたものは、弁慶の忠節、問答の強さ、気迫、それを最後までもちこた えること、そして掛け合いの太夫の全体をまとめること、それを彼はやり遂げた。
 とりわ け津駒の富樫との丁々発止の問答の、息もつかせぬ迫力を、忘れることができない。
 三段 目語りとしてのステップを、彼は、一つ越えることができた。

 富樫は津駒。
 持ち前の美声のみならず、うまさが加わってきた。
 そう、簑太郎とともに、 弁慶にだまされたふりをする、情けを知る男としての器量、富樫の深みを感じさせる描き 方である。この富樫あればこそ、この弁慶あり。見事な出来であった。
 義経は呂勢。
 呂勢 はこの日3度目の舞台だが、声に衰えもなく「道中双六」の美しさ、「吃又」の口の人物関 係に加えて、この落剥の武将を切実に語った。

 番卒、四天王は新、咲甫。いずれも歯切れよい語り口で、すみずみまで明確に聞こえる。 声が十分に響く。人形の玉輝、簑二郎、幸助、亀次、それぞれに性根を伺わせる。
 そして清治の三味線が、舞台の全体を率いる。
 英大夫の言葉を借りれば、「磐石の間」で ある。そこに一点の曖昧さも乱れもない。絶対の信頼関係。
 名手清治なればこそ、初役の 太夫も人形も、安心して力を出し切ることができたと思う。
 宗助をはじめとする若手の三 味線陣(清太郎、清志郎、清馗)も、何の不安も迷いもなく、力いっぱい付いていけばよ い。その音色が清々しい。
 この成功の第一の功労者は清治であることは疑いない。

 彼らのひたむきな芸のぶつかり合いが、彼らの総力が、新しい舞台を作り出した。
 この 物語を生かそうとする力が、古い物語に命を与えた。
 次代の三段目語りへ、切語りへ、座 頭へ、立女方へ、伸び行く力が理屈ぬきに充実となる。
 この幸福な出会いを、七夕の夜の、 年に一度の逢瀬のように待ち望んで、そして与えられた。

 文楽を見る喜びはここにあった。