悲劇の構造――2001年4月公演を見る

 一見女同士の争い、遺恨と見えた「草履打」が、陰謀を持つ者とそれを知る者との間の鞘当であり・・・言ってみれば、五段構成の時代物の浄瑠璃世界には、中空のような中心があり、悲劇はその中心においてではなく、それを巡る周辺において、その中心からはじき出された者においておこるということを知らしめた

 いつも思う。清治の三味線で、一度たりとも不足とか、不安とかを感じたことがない。彼の三味線はいつも、音がそうなるべきところに、0.1ミリの狂いもなく入っている、という感がある。その音色の多様多彩なことはいうまでもない。まるで太夫の語りに合わせて、千も万も引き出しがあり、そこからふさわしい唯一つの音色を引き出してくるようだ。

 かつて故六世中村歌右衛門は、この廊下の引き込みの「羊の歩み」を、歌舞伎座の花道を8分かけて引き込んで表現したという。「腹で泣いて表面は何ともない」ふうに、というが、8分もかければ「何ともない」など見えようはずもない。だが、桐竹紋十郎の尾上は、わずかに草履を見つめて、下手へと引き込むだけで、「死以外は考えていない女」を表現したという。このときの玉男の尾上もそうであった、と思う

 権力の中枢からも、政治向きの情報からも締め出されるような下級武士が、結局その権力闘争に巻き込まれ、その手駒としてその忠義を利用され、相手に加担することになったばかりか、自らの基盤を失ったことである。又助の子と妻、その痛ましい献身と犠牲が、無意味なものになった。その悲劇の構造を、英―十九は明らかにしてくれた。そしてこの又助一家の嘆きを心に同調できた。全体として、端場での性根の確かさが切場での悲劇の格を作り出した

 権力闘争の中心人物は姿を見せない。その空白の中心に向けて、この悲劇は問いかける。この国では、いまもなお、同じ構造の悲劇が繰り返されているのだと。そのゆえにこそ、この物語は今日的な「読み」をもって共感し、再創造できる物語であると

 悲劇の重なりの後の、打ち出しの「千本桜・道行」。中堅・若手の床の見事な成果。清友をシンとする5挺の三味線、津駒・三輪の生き生きとした美声、さらに簑太郎、玉女の今を盛りの力強い舞台に酔わされた

森田美芽

 春4月、満開の桜と花冷え、去る人と動く人、様々な不安定さが、かえってその思いを 駆り立てる。吉田玉男文化功労者顕彰記念と銘打たれた2001年の4月公演は、床、手摺と もその充実ぶりを示すと同時に、未来に向けてのある種の危うさ、各々の抱える課題の大 きさをも感じた。

 今回の収穫は、まず第一に、「加賀見山旧錦絵」の「又助」のくだりを成功させたこと。

 この作品は、加賀藩の権力闘争を脚色した江戸浄瑠璃である。お家騒動にからむ、下級武 士又助の悲劇を描いた前半と、召使お初の敵討ちを描く後半。通常後半部分のみ歌舞伎で もよく上演されるが、又助の件は珍しい。しかし、一見別の物語のこの2つの物語が上演 されることで、この物語世界の描く悲劇の構造が示され、その悲劇の意味が輻輳し、深く 心に届く。
 一見女同士の争い、遺恨と見えた「草履打」が、陰謀を持つ者とそれを知る者 との間の鞘当であり、尾上の自害は、単なる矜持の高さによるものではないと知られる。 言ってみれば、五段構成の時代物の浄瑠璃世界には、中空のような中心があり、悲劇はそ の中心においてではなく、それを巡る周辺において、その中心からはじき出された者にお いておこるということを知らしめたことである。

 幕開きは「筑摩川の段」御簾内で文字久、清志郎。謡がかりの語りだしは十分。清志郎 もよくついていく。音がすみずみまできれいに届く。「鳴るは虫おしごろた道踏みくぢき踏 みすべり、ござひきかぶって又助が忠義一途の一筋道」で、又助の性根が語られる。若手 の波のメリヤスも勇壮に、又助が「身づくろひ川辺に下り立ちざんぶと飛び込み」、待ち受 ける。そこで敵と付け狙う蟹江一角と主君を取り違えて討ち取る。これが悲劇の始まりで ある。

 この場は、昨夏の「国言詢音頭」の幕切れを思わせる。実直そのものの又助の唯一の狂 い。その狂いが彼に破滅をもたらすとは。

 「又助住家の段」中、英大夫、燕二郎。端場とはいえ約30分の持ち場で、三大身売りの 一つと呼ばれる場面。「忠臣蔵」の「身売り」に匹敵する内容と格を備えている。まず女房 お大で老け女形、「頓狂声」の歩きの太郎作、亭主才兵衛の三枚目だが抜け目ない玄人、谷 沢求馬の若男、庄屋治郎作の又平首、又吉の幼い子供の声、そして又助の文七首にふさわ しい大きさと実直さ、これらを語り分けねばならない。最初に床そばで聞いたとき、端役 と三枚目と又平の違いがわかりにくかったし、お大はなにかひっかかりのあるような声づ かいであった。ところが1週間後、床のちょうど反対側で聞くと、声は伸びやかに、どの 役も自然に声の使い分けが出来ている。

 まず、又助に「男」を感じた。義を重んじ、悪を憎み、ひたすら忠義を尽くそうとする。 だが実は、主君の顔も知らない下級武士。彼らこそ忠節という点では鑑なのだ。中心でな く周辺にこそ真理は残る。妻に向かうぎこちなさ。無骨を絵に書いたような、ごまかしの 出来ない男。

 次に、女房お大の「老け女形」の性根。貞淑な女房が、夫の苦境を救うために、密かに 身売りを決意する。子どもへの思いと夫への思い、その切なさが胸をうつ。 さらに、3人の脇役の性格が、すべて詞で表現されていた。太郎作はかるく人がよい。 玉志は動きにメリハリがついた。才兵衛は粋人らしさもある三枚目。簑太郎は細かい動き まで見せるし、玉女はチャリとしての動きを明確に出す。庄屋は小心な年寄りと思われた。 簑二郎は前半と後半の変化を面白く見せる腕を持っている。

 お大は文雀。丁寧でしとやか、貧苦のなかの忠実、人妻の色香をほのかに匂わせる。こ のお大の身売りの決意の強さ、子を思ういじらしさ、夫への見せ掛けの愛想尽かしの裏に あるもの、その一つ一つを丁寧に感じさせた。求馬は和生。上品で、世間知らずのおぼっ ちゃんの弱さと強さを適切に遣う。文吾の又助。実直、剛毅な男。お大の身売りを知って はっとするその思いが伝わってくる。燕二郎の三味線は手強く、曖昧さのない芯の通った 音色。

 切は十九大夫、清治。いつも思う。清治の三味線で、一度たりとも不足とか、不安とか を感じたことがない。彼の三味線はいつも、音がそうなるべきところに、0.1ミリの狂 いもなく入っている、という感がある。その音色の多様多彩なことはいうまでもない。ま るで太夫の語りに合わせて、千も万も引き出しがあり、そこからふさわしい唯一つの音色 を引き出してくるようだ。

 今回もこの三味線に圧倒された。時間の経過、又助の喜びから 一転しての嘆きと悔い、わが子を手にかけるまでのためらい、悪を装って自分を手にかけ させ、自らの潔白を語る。なんという「思い違い」。そしてお大の自死。又助一家の悲劇を、 克明に三味線が追っていく。三の糸を切ってもそれと気づかせぬほどの迫力に陶然となっ た。

 十九大夫は安田庄司の出から、この物語の謎解き、又助が忠義のつもりで逆に主君を 討ったという逆説を明らかにしていく。その迫り、「我が身の運命筑摩川」の嘆きが痛まし い。やはり語りが大きい。「かきくどき夫婦手を取りかはし叫び嘆けばほとばしる血汐は空 の立田山落ちて流れて谷川も紅染むるごとくなり」という大落としも、決して大げさとは 思えなかった。見事な段切れであった。

 この場の悲劇は「何事も存ぜぬわれわれ」といわれるように、権力の中枢からも、政治 向きの情報からも締め出されるような下級武士が、結局その権力闘争に巻き込まれ、その 手駒としてその忠義を利用され、相手に加担することになったばかりか、自らの基盤を失 ったことである。又助の子と妻、その痛ましい献身と犠牲が、無意味なものになった。そ の悲劇の構造を、英―十九は明らかにしてくれた。そしてこの又助一家の嘆きを心に同調 できた。全体として、端場での性根の確かさが切場での悲劇の格を作り出した、良い舞台 であった。

 休憩後、「草履打」。一転して華やいだ春らしい舞台。岩藤は松香、尾上は千歳、善六に 南都、咲甫・相子の腰元、三味線は団七。松香はさすがに年功で、岩藤を憎々しげに描く。 善六に芝居を演じさせ、尾上をいたぶる意地の悪さ。ひたすら耐える尾上。千歳は千秋楽 近くなって、少し声が荒れているように思われる。尾上の悔しさ、耐える思いを匂わせる 力はさすが。南都は気の毒にも思えるが、それでも精一杯努める姿勢がさわやかである。 咲甫、相子は力をつけてきている。団七は匂うやかな華やぎと葛藤のすさまじさ、この場 の緊張をあでやかに描き出す。

 尾上はいつ、自害を決意したのだろう。玉男の尾上は、わずかな肩のふるえ、一筋乱れ た後れ毛の揺らぎで、すべてを語っている。語る千歳と語らぬ玉男。その狭間に立つ人形 は、内へ内へと内向する思いを胸に立ち尽くしている。岩藤は一暢。普段この人があまり 遣わない首だが、この人のうまさを見る思い。

 「廊下」伊達・寛治。もはや余裕というべきだろう。この場が入ることが、お家騒動と しての意味、単なる女同士の対立でないことを知らせる。岩藤の真価はこういうところに 出る。紋寿のお初。はきはきと明るく、「利発な」という形容詞は彼女にこそふさわしい。 和右のお福首もしっかりしている。伯父弾正は玉也と玉輝のうってがえ。もう少し悪のふ てぶてしさ、底強さを出してもよい気がするが、実直で力強い遣い振り。

 眼目の「長局」。お初はさっきの密談をいつ語ろうかと迷っている。そこへ尾上が下がっ てくる。それは、舞台を上手から下手へと横切るだけである。下手で、ただ一度草履を見 て、昨日の遺恨を思い出す。だが、そこで尾上がすでに死を決意していることがわかる。 部屋へ戻ってのお初とのやりとりはほっとさせる場面も作りながら、悲劇への緊張を作り 出していく。綱、清二郎、弛緩させない語りと弾き。尾上とお初は、主従でありながら、 姉妹のように通じ合っている。

 草履打という恥辱を受けて、死を思いつめつつも、お初を 思いやる尾上、主君の悔しさを思いつつ、思いつめた主君を案じるお初。烏鳴きからの急 展開、ここで単なる意趣返しではない、命をかけての訴状となることを示す。お初の狂乱 は、単なる激情ではない。尾上の悔しさを自分自身に感じる感情の同調とともに、正義の 怒りである。これが冒頭の又助の狂気とつながり、安田の庄司が出ることで、両者のつな がりを見せる。

 中心と周辺。又助は下級武士、尾上は町人、お初は貧しい武家娘。いずれも権力の中心 からは疎外されながら、行き掛かり上その争いに巻き込まれたものの悲劇である。この悪 の仕掛け人、権力闘争の中心人物は姿を見せない。その空白の中心に向けて、この悲劇は 問いかける。この国では、いまもなお、同じ構造の悲劇が繰り返されているのだと。その ゆえにこそ、この物語は今日的な「読み」をもって共感し、再創造できる物語であると。

 そして玉男の、一世一代の尾上。かつて故六世中村歌右衛門は、この廊下の引き込みの 「羊の歩み」を、歌舞伎座の花道を8分かけて引き込んで表現したという。(渡辺保『女形 の運命』参照)「腹で泣いて表面は何ともない」ふうに、というが、8分もかければ「何と もない」など見えようはずもない。だが、桐竹紋十郎の尾上は、わずかに草履を見つめて、 下手へと引き込むだけで、「死以外は考えていない女」を表現したという。このときの玉男 の尾上もそうであった、と思う。

 品格を持って、しかも心に思い定めた様子で、死を覚悟 した尾上の思い、その姿。ふと気づいた。今回共に上演された『摂州合邦辻』で、吉田簑 助の玉手御前にも、同じものを感じた。俊徳丸の後を追って父の家を訪ねる玉手。御高祖 頭巾に顔を隠し、閻魔堂の門口にたたずむ。そのとき、玉手はすでに死を覚悟していた。 自らの命を捨てて俊徳丸を救おうとするのか、義理を果たすためか、恋に殉じるためか、 いずれにせよ、玉手は自らの死を予測していた。その緊張感が、静かに迫ってきた。それ は、ある意味で、肉体の限界と戦いつつ人形を遣う彼らのなかからほとばしり出た表現な のかもしれない。住大夫によるこの『合邦』は、娘を思う一徹な父の悲劇として構成され た。玉手の狂気よりも、義理のゆえに娘に手をかける父親の悲劇に主眼が置かれたように 思う。そしてこの2人の女の死をへと向かわせるものの論理のむごたらしさを、共に感じ ることが出来た。それを彩るのは、錦糸の見事な三味線であった。切場の三味線の格を備 え、玉手の、親合邦の悲劇を、糸が誇らかに描き出す。「西門通り一筋に、玉手の水や合邦 が、辻と古跡をとどめけり」という、その物語世界の広がり、現代へと続く精神の脈々た る流れを感じさせた。

 もう一つの「葛の葉子別れ」「信太森二人奴」は、狐という点で「千本桜」に、「子別れ」 という点で「又助」に繋がる。しかしそれらと異なるのは、土地の力である。阿倍野とい う熊野への道の歴史を背負った場、そして人の力を超えた異種婚の不思議、さらに畜生と 呼ばれる存在こそ、人間以上に人の情も恩も感じるという逆説。嶋大夫の語りはそうした 情味をまろやかに、豊かに納得させるものであり、狐とその姿を借りられた人間の対照の 妙をよく表わした。文雀の女房葛の葉も、こうした切なさと情味を見せてくれた。玉松は 年功を見せる。清之助はどうしてこうも物堅い姫を的確に遣えるのだろう。玉佳の安部童 子の愛らしいこと。

 「二人奴」はその視覚的対照性が見事。勘寿はこんな力強さもお手の物に見せる。貴大夫 は決して得意な役ではないかもしれないが、力強く努め、津国は芯の通った強さ。喜左衛 門がそれらを見事にまとめる。

 こうした悲劇の重なりの後の、打ち出しの「千本桜・道行」。中堅・若手の床の見事な成 果。清友をシンとする5挺の三味線、津駒・三輪の生き生きとした美声、さらに簑太郎、 玉女の今を盛りの力強い舞台に酔わされた。葛の葉姫、浅香姫に比べて、静はまさしく白 拍子、自らの意志と力で生き抜いていく女であり、わずかなしるべを頼りに、はるばると 旅をする女である。狐忠信は色男ぶりを見せる。恋人どうしでなく、同じ志を持つ者どう しの旅路。「枝を連ぬる御契りなどかは朽ちしかるべきと」が響いてきた。

 見渡す限りの花、浮き立つばかりの三味線の旋律。しばし夢のごとくに酔わされた後、 あの歩みの向こうに、権太の一家の悲劇が連なっていることを思い起こした。あの、山ま た山の峰を連ねてゆく吉野の山のごとくに、人の運命もまた、絡み合い連なりあって、私 たちの世代へと、その思いを、嘆きを連ねているのかもしれない。そんな思いを深くした、 春の宵であった。