「御霊文楽座復活」

3/22「義太夫と落語の会」@御霊神社の当日パンフレットに載せる小佐田定雄先生の巻頭の文章を先行紹介致します。
ご本人の許可済みです。

「御霊文楽座復活」
     古い文楽関係の本を読んでいると「御霊文楽座」という言葉がよく出てきます。
文楽が黄金時代を迎えていた明治十七年[一八八四]から大正十五年[一九二六]まで、そのホームグラウンドとして大勢のお客様を集めた劇場で、木造二階建て、舞台の間口が十三メートル、一階客席は升席で両側には桟敷席があり、全体で七百五十人ほどのお客様を収容できたと記録にあります。
その「御霊文楽座」があった場所というのが、皆さんが今いらっしゃる御霊神社の儀式殿なのです。
境内に「御霊文楽座跡」という石碑と、大夫さんが義太夫を語るときに前に置く「床本」をかたどった「文楽座跡」のプロンズ製記念碑がございますので、お帰りの際にご確認くださいませ。
そして、儀式殿を出てすぐの駐車場のところには「尾野席」という百人ほど収容の寄席があり、「錦影絵」という現代のアニメーションの元祖…「動くスライド」が上映されていました。

大阪の人間にとって、義太夫は最高の娯楽でした。
明治の初めころまで、大阪には素人の義太夫天狗たちが夜な夜なよそさんの軒先に立って自慢の喉を披露する「軒付け」という風習がありました。
今で言うならば、カラオケセットをかついで各家をまわって軒先で歌うという行為です。
ずいぶんオソロシイ風習があったものです。
そんな風習を題材にしたのが、今日桂雀松さんが演じる『軒付け』という落語。
主人公が義太夫の発表会で『仮名手本忠臣蔵』の五段目を語った…というエピソードから幕が開きますが、あとは聞いてのお楽しみ。
(続く)