MFさんより。その二

今回の様な上演形態になりますと、客の感情は、息子を失った松王丸の女房千代に集まります。

何度か寺子屋を拝見してきましたが、今までとは全く違う感覚で伝わって来た所があります。

それは、千代が息子小太郎を迎えに来る所です。
今までの私は、千代が小太郎を迎えに来る事も芝居の内だと思っていたのです。
つまり、息子を身代わりにさせる為に寺入させた芝居の続きで、文庫の中から白装束が出て来るのが道理の証拠…という様な感じです。
しかし今回の語りでは、千代は「もしかして小太郎は身代わりにされていないかもしれない‥」という一分の望みをもって源蔵宅に迎えに行っていました。
(と、私には思えました)
   若君、菅秀才のお身代わり、
   お役に立てゝ下さったか、まだか様子が聞きたい
そこには、すべての事を承知しつつも最後まで望みを捨てられない母の姿がありました。
また、これによって、松王丸の企みが安易なご都合主義として描かれていない事が理解できるのではないでしょうか。
つまり、やはり松王にとってもある種の「カケ」であったと…。

だからこそ、文庫の数を数えるエピソードや「女房悦べ、倅はお役に立ったぞ」という詞とともに、その後『ワッ』と泣く千代の悲しみもまた、生きてくるのだと思います。

そして、いろは送りへ…
11月に、英大夫さんがいろは送りの部分を中心に語っていらっしゃるNHKのラジオ番組を拝聴しました。
この時は、いろは送りのすぐ前からの語りです。

「前後の関係が有る無しによっては、必然的に意味解釈が変わる可能性がある」という意味では、見取上演よりも顕著にトリミングされています。

その時に思ったのは、この美しい旋律と詞は「道行の質感ではないか」という事です。
六道巡りの様子は、名所(などころ)を巡る道行の形式と似ていますし、音曲の決まり事は私にはわかりませんが、その美しさという意味では、きっと道行の曲に匹敵すると思います。

しかし、文楽の舞台での松王丸と千代は寺小屋に留まっており、一方では菅秀才を含めた源蔵夫婦のドラマも続いている訳で、「道行」ではありません。
ドラマの底に漂う質感を支える様式美としての「いろは送り」です。
だからこそ単純な感情を越えて、複雑な、何とも言がたい素晴らしい感動を私たちに与えてくれるのではないでしょうか。