『単なる笑い、グロテスクな悪を超えた』眼。M.Fさんより。

M.Fさんより、なかなかのお便りを頂戴しました。
ぜひ、お読みくださいませ→《英大夫さんの「東天紅の段」とても素晴らしかったです。
今まで感じなかった新しい発見がありました。
それは、「菅原伝授手習鑑」 全編を流れる「親子」というテーマです。
「東天紅の段」の太郎と兵衛、その悪巧みの最中、親子の関係は妙に中睦まじく感じます。
やがて女房を殺しても、思惑通りに鶏が鳴いたのを無邪気に喜ぶ二人。
ですが、この親子の無邪気さは、単に話に面白みを加える演出の笑いではなく、「親子」というテーマを描くのには必須なのだと、後の「丞相名残りの段」を観ていて気づきました。
「丞相名残りの段」では覚寿が 立田前の敵打ちとして太郎を刺しますが、それを知った親・兵衛は 「親兵衛、前後も更に弁へず、走り寄って引き起こし~」 と、なりふり構わず駆け寄って来ます。
そして「倅めが出世を思ひ~」と、息子の出世のための悪巧みだと告白します。
つまり、ここで「東天紅の段」の意味が分るのですね。
頭脳はパッとしない肉体派の倅・太郎は、女房を殺す時に一瞬怯む様にも見え…まあ、悪人としても小物でしょう。
その太郎を溺愛する切れ者の親・兵衛。
その歪んだ親子関係が「東天紅の段」で描かれていたのです。
これ、親子の偏愛として考えるとスゴく真実味のある話です。
今迄は立田前の無惨な死ばかりに目が行っていたのですが、今回初めて、太郎と兵衛の親子関係に意識が向きました。
敵役の悪人にまで、 これ程深い親子関係が描かれていたとは驚き!! (考えてみれば、三段目も四段目も、それぞれ親子の話です)ここで、英大夫さんがレクチャー等でおっしゃる「口伝」という事を思い出しました。
「東天紅の段」を読んで、現代人が恣意的に解釈を行なっても、「ただの笑い」や「グロテスクな悪」にしかならないと思うのです。
悪の中にもある仲睦まじさと無邪気さは、演出や解釈というレベルでは無いと思います。
伝わってきた義太夫節としての芸(あえて形式と言っても良いかもしれません)から、個人の意図を越えた話の真実が見えるのかもしれません。
ちなみに、『夏祭浪花鑑』『菅原伝授手習鑑」』どちらも、「鑑」という字が付いています。
『夏祭』も「田島町団七内の段」があることで、いつもより親子関係を強く感じる物語になっていた様に思います。
実は気になって帰宅早々漢和辞書で「鑑」を調べたら、これも面白い発見がありました。
「鑑」という字は前例を見て善し悪しを考えることで、必ずしも良いお手本とは限らない様なのです。
「子は親の鑑」という慣用句は「同じ、似ている=鏡」という事ではなく、「自分の戒めとする材料=鑑」になる様です。
どちらの狂言にも「鑑」が付く事に、またまた納得できてしまいました。
》← 「伝わってきた義太夫節としての芸から、個人の意図を越えた話の真実が見える」。
いい言葉ですね。
ありがとうございました。