『封印切』考『被害者としての忠兵衛』。

歌舞伎ファンが文楽の「封印切」を観ると、八右衛門が歌舞伎ほど悪い奴には見えないと言う。
友達思いの善人だというひとも多い。
しかし私は近松原作の文楽を観るにつけ、八右衛門は歌舞伎で受ける印象以上に手の込んだ悪人だと思う。
八右衛門は大店の跡取りとして都会の真ん中で生まれ育った。
一方、忠兵衛は田舎から二十歳前に飛脚屋(郵便局&銀行・当時民営化50年の花形産業)、の養子としてやってきた。
出会った当時、八右衛門は田舎者丸出しの忠兵衛を弟のように可愛がり、仕事やら遊びやら、都会を生きていくためのあれこれを教えた。
このままなら美しい友情で済むはずだが、忠兵衛は仕事も趣味もそつなくこなした上、男前ときたものだから、挙句は人気女郎にも惚れられてしまう。
八右衛門は面白いわけがない。
しかしそれをあからさまに嫉妬したのでは男が廃る。
絶縁もせず表面上は友人として振舞っていながら、実際は忠兵衛の気持ちを逆なでして追い詰めていくのだ。
本当に友達思いなら、忠兵衛の親にかけあってなんとかするなり色々な方法もあっただろう。
なおさら金持ちなら、忠兵衛が破綻しないように50両の金ぐらい呉れてやるはすだ。
また遊びを教えるほど粋ならば、あのような遊郭で忠兵衛が自分から金を借りて返さないこと、姑息にも鬢水入れを50両と偽ったこと、文盲の母親を騙すために偽の受取を書いてまで自分が庇ってやったことなど洗いざらい言いふらしてこれ見よがしに友人に恥をかかせてまで遊びをやめさせることはなかったはず。
しかし、忠兵衛はただひとりで落ちていったのではない。
厭世観の真っ只中にあった梅川の存在は見逃しにできない。
一見、忠兵衛が梅川にぞっこんだったかのように思われるが、恋愛経験においては梅川の方が上。
遊女だから当たり前のことだが、忠兵衛はというと梅川から見たらうぶな男前のボンボンである。
いやな田舎客に見受けされて一生を送るくらいなら、忠兵衛と伴に冥土へ旅立つ方がまし。
いや、来世志向の確立されていた江戸時代の女性としては、夢みたいな話かもしれない。
近松の話の展開は深く鋭いのだ。