船木浩司さん(歌舞伎エッセイスト)の、『伊賀越』便り。

→《今回、敵討ちって大変だなと思いました。
仇は一人では討てないんですよね。
家族や周囲の人たちを巻き込んでしまう。
それも、大概は、不幸にしてしまうんですね。
いじめや虐待あるいは、ちょっとした諍いで簡単に人を殺してしまう昨今に、敵討ち制度を復活させればなどと、まんざら冗談とばかりは思えない発言をする文化人と称する人もいますけれど、そして、被害者の遺族の感情としては、その意見、私にもわからないわけでもないのですけれど、『伊賀越』の時代には主家から仇討ちの赦免状をもらった時から浪人をして、仇を討つまで戻れないのですからね。
その間に、妻を離縁し、わが子と別れ、貧乏に耐え、義理ある人への不義理・不人情もすべて「めでたく本懐を遂げる」ため。
そうしなければ、元の生活に戻れないのは、つらいですよね。
仇討ちを奨励し、美談とする風潮や、仇討ちを許可するシステムなどなきゃいいと思うのが、むしろ、討つ側の本音だと思いますよね。
時間がかかればかかるほど、金銭、体力、気力なども厳しくなって、本懐を遂げる前に野垂れ死にがあったのですから。
二重、三重の苦しみです。
抑えがたい怒りや感情はいつまでも残るにしろ、今みたいにお上が罰してくれる方がいいでしょう。
浄瑠璃や歌舞伎に限ったわけではないでしょうが、仇討ちだけではなく、「男の意地」とか「身勝手」とかで、周囲を一気に不幸に落とす物語が多いですね。
もっとも、芝居というのはお家騒動物でもそうですが、そういう仕掛けで作っていくようになっているのですね。
親がわが子を、子が親を殺す…芝居だけで十分です。
ところで、大夫、間違ってたらゴメンナサイですが。
あなたは、舞台に立てば、いや、座れば、そのたびに、進化してやるぞと思っておられるような気がします。
それが、語りを通して全身から漲っていて、その迫力に引き込まれ、文楽を観た、浄瑠璃を聴いたという満足感を頂戴して帰れます。
『岡崎の段』も私にはそうでした。
歌舞伎を観ていても同じです。
歌舞伎が好きで、自身、つねに進化しようと思って舞台に立っている役者さんには惹きつけられます。
「俺の語りを聴かせてやる」…言葉をストレートに取れば意味は間違いますが、大夫から、そんな印象を受けました。
そんな大夫を素敵だと思いますが、もちろんお世辞ではありません》。