絵金『伊賀越道中双六・岡崎』.

【絵金『伊賀越道中双六・岡崎』171×184cm。
高知・朝倉神社蔵。
『土佐の絵金』こと広瀬金蔵は文化9年(1812)高知城下に髪結いの子として生まれる。
17歳で江戸へ修業に出て御城絵師狩野洞白に入門。
20歳で土佐に帰り藩絵師に取り立てられ、名字帯刀を許される破格の待遇を得『林洞意』と称したが、狩野探幽の偽絵を描いた咎で罰せられ(絵金が描いた狩野探幽の模写を古物商が売ろうとして摘発されたと言われる)、身分姓名を剥奪の上追放される。
その間10数年の消息は謎であるが、そのあまりに詳細な芝居絵により、近年、上方の芝居小屋で働いていたのではないかとの説も上がっている。
謎の放浪の後、土佐に帰り、一介の町絵師として、祭礼の台提灯絵と呼ばれる数多くの芝居絵等を描き続け明治9年(1876)に没した。
絵金の泥絵具によるサイケデリックな芝居絵は、夏祭りの宵宮の暗がりの中、屋外の蝋燭の灯で浮かび上がる効果を狙って描かれている…一見、凄惨(血みどろ絵が多い)、野卑で良俗を欺く表現は見世物絵=キワモノめいてはいるが、狩野派で鍛えた確かなデッサン力と構成力は、複雑怪奇な浄瑠璃芝居のクライマックスを見事に一つの画面に収めてゆるぎなく、その迫力には息を飲むばかり。
また、当時の浄瑠璃歌舞伎を知る資料としても大変貴重である。
幕末の頽廃や時代の転換期のエネルギーの爆発も予感させる作品群は、現在も高知の夏祭りの呼び物として闇の中から怪しく浮かび上がっている。

→『みづゑ』no.780(美術出版社刊)1970年10月号特集「絵金=幕末土佐地狂言怨念」と、最近の絵金に関するホームページを参考にしました。