織田作之助『大阪論』より(昭和18年7月)。《あこだけは、世の中を諦めてしまわな、居られんとこだす》

—《私は、自慢するわけではないが、どちらかといえば、年の割には文楽通の方であるかもしれない。
といって悪ければ、文楽ファンであろう。
—大阪のことを書けと命令されると、たいていは文楽のことに触れてしまう。
阿呆の一つ覚えである。

 栄三はかって「わてや文五郎はんみたいな阿呆はもう出まへん」といったそうであるが、それに輪をかけた阿呆が、津太夫であった。
芸馬鹿であり、無慾であり、単純であり、朴訥であり、お人好しであり、好好爺であり、阿呆が神に通ずる一番の近道であるとい意味での、阿呆であった。

 九州福岡の人である津太夫は、誰がなんといっても、私には見事な大阪人である。
この人は、いや、この人だけじゃない、すべての文楽の人が異口同音に言う。

 「あこだけは、世の中を諦めてしまわな、居られんとこだす」—金の都大阪に、物慾の煩悩を捨てた文楽の人達が生まれたのは、かえすがえすも大阪にとって、致富の観念が倫理化されていたからに外ならないのである。

 文楽の人達は金を好むが如く修業を好んだのだ—大阪人の現世主義のもっている積極的なねばり強さ、不屈不倒の精神が、金を捨て、現世を諦めた文楽の人達の中にも、根強く尾を引いているのではあるまいか—この人達の苦労は無償の行為なのである。

 雁治郎にしても、父親に捨てられた子供時分、家が破産して、呉服屋の担ぎ行商をやったり、文楽へはいったり、ドサ廻りをしたりして、随分苦労の多かった人だが、そういう苦労があったと思えぬくらい、年中正月役者のような明るい人であった。

 こうした明るさ、こうしたとぼけた味は、しかし、一体どこから来るのだろう。

 物慾を捨てて芸道一筋に精進したあげく、この人達の心が邪気のない童心になってしまったかと思われるが、ひとつには、この明るさは、この人達が大阪人として元来持っているものなのではなかろうか。
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  ←「阿呆が神に通ずる一番の近道であるとい意味での、阿呆」・・・含蓄のある詞でんなあ。