まる猫さんの感想 その2

《 吉田簑助さんの著書『頭巾かぶって五十年』に「あの人形生きてる」「どこまで語りました?」という面白いエピソードがあります。
  織田作が文楽を楽しんでいた頃の活気、戦争中という特殊な状況下でも文楽を楽しむという大阪の庶民の様子、今では名人と呼ばれる人の市井人ぶりが描かれていて、『二流文楽論』と引き合わせて読むと一層面白いようにも思えるので、少々長くなりますが、最後に引用、紹介させていただこうと思います。
  「あの人形生きてる」支那事変が拡大しまして、文楽でも戦意を発揚さすような時局物が出たりしていましたが、皇紀二六〇〇年の昭和十五年二月、『三勇士名誉肉弾(さんゆうしほまれのにくだん)』俗にいう『肉弾三勇士』が再演されました。
  旅団長とか一等兵とかに、栄三師匠や文五郎師匠以下、大幹部総出演で、進軍ラッパは三味線が表現していましたが、飛行機の爆音は床屋さんのバイブレーターのようなものを大太鼓の皮に当てて出し、機関銃の音はトタン板を長い竹ばちでたたき、馬の蹄の音は箱に入れた砂をお椀で打って、それぞれの雰囲気を出していました。
  当時六つの私は、戦争にたいする意識などまるでなくて、とにかくそんな擬音が楽しい毎日でした。
その頃、人形の衣装の軍服がちょうど私にぴったりなのです。
だれかが私にそれを着せます。
人形の鉄兜はさすがに合いません。
いくらなんでも、人形の頭より私の頭のほうが大きいのですから。
  ところがその時分、子供の間でも、戦争ごっこが流行っていたのでしょ、どこの玩具屋にも、ボール紙かセルロイドでつくったような鉄兜が売っていまして、頭取の補助をしている人がそれを買いに走る。
とうとう人形と同じような恰好にさせられていました。
  思えば、着せ替え人形みたいに、おもちゃにされていたのです。
問題はそれからです。
これを見ていた玉男兄さんと紋昇時代の勘十郎兄さんが、それに輪をかけた悪戯を思いついたのです。
突撃の号令で、舞台の上手から下手へ駆け出すツメ人形にまじって、私をいきなり小脇に抱えるやいなや、舞台を二往復三往復するのです。
  いくらサイズは同じでも、人形よりは重いですから、玉男兄さんと勘十郎兄さんは息を切らせています。
私だってそれ以上に苦しいのです。
息遣いも表情も普通ではなかったでしょう、きっと。
》つづく