まる猫さんこと圓尾敏之さんからも『二流文楽論』感想がきました。

3回に分けて掲載します。
<その一> →《 織田作の二流文楽論を楽しく読ませていただきました。
「二流」という着眼点には、目から鱗が落ちる思いです。
  字義通り解釈しますと「一流」とは「第一等の地位であること」とされ、「二流」とは「格式・程度・品質がやや劣ること」ということになりそうですが、確かに文楽は本来「庶民」の娯楽であり、市井の「庶民」の殆どが「一流」でない人が主流なはずですから、文楽が「一流」であるというのもおかしな話で、近頃、国際的にも評価が高くなってきた漫画やアニメを「文化」や「アート」と言い切ってしまう居心地の悪さにも似ています。
  内に秘めた崇高な精神や高度なテクニックは、文楽や漫画・アニメとして表現された以上、娯楽を商業ベースに乗せる芯柱にすぎす、目指すところとはその先にあるのではないかと思うのです。
文楽においても、そのテクニックは高度かつ洗練されており、それだけでも「一流」と称するに相応しいもので、実際、そのような評価も多く受けているのですが、実は文楽の目指すところは、そこには無いというところに、文楽の面白さ、奥深さがあるのではないか、結局は劇場に足を運んでくれるお客さんに喜んで帰ってもらうこと、という一点に尽きるのではないか、と思うのです。
  そうであるのなら、劇場に足を運ぶ大半のお客さんが大阪の庶民である以上、必然的に文楽は「一流」にはならないのではないか、織田作の言うとおりであると感じます。
実際、文楽の場合、どう考えても「二流」と言わざるを得ないような「技」も多くて、人形の梨割りであるといった演出などは、その最たる例であり、文楽がどのような客層に支えられて続いてきたかと言うことがよく分かります。
  文楽の技芸員の内に秘められた情熱や厳しい精進に培われた高度なテクニックは、そのような庶民の心の動きと密接に連絡しているのだと思いますし、また、そうであるからこそ、織田作の言うように名人上手と言えども、「一流」の面影もなく、一介の市井人にすぎなかったのでしょう。
  そして、人を喜ばせる「文楽の人」ほど「一流(第一等の地位であること)」というような価値観や尺度に縛られず、そのことを密かな誇りとされているのではないかと感じます。
》つづく