織田作之助『二流文楽論』(1946年)より。《その時こそ、文楽の忘れられていた魅力が改めて甦る》。

死(34歳)の3ヶ月前の文章だ。
一流を気取る文壇への痛烈批判に文楽をぶっける…文楽に自分自身を重ね合わせる、オダサクならではのビックリさせたろか詭弁の様でいて、正論→ 《文楽の人たちは文楽を一流芸術だとは思っていないのだ。
まして自分たちを一流の芸術家とは思っていない。
この人たちは何れも大阪の市井の俗人に過ぎない。
名士になろうという野心もない。
大きな邸宅など構えて、一流人らしく収まりかえったりするような真似は出来ない。
 「号外」を「ボウガイ」と言って、人に指摘されると、「なんや一字だけの間違いやないか」と言う。
自分の住んでいる家の所番地も言えない人間も文楽にはいるのだ。
 「土佐は賢こすぎる。
古靱は学者すぎる。
津太夫は阿呆すぎる」と言った人があるが、土佐、古靱を除いて、津太夫を筆頭にみな阿呆であった。
誰かが秋声を無学文盲と評したが、どこか秋声と似かよう津太夫は紋下までなりながら、一流人の面影はなかった。
一介の市井人であった。
寄席芸人とそう違ったくらしはしていないのだ。
 いや、彼らの見物である大阪の庶民が住むような家に、彼等も住んで、同じ銭湯にはいっている。
長屋ぐらしもしている。
自分が無学文盲なので、学問の出来る女房を貰えば、賢い子供が出来るだろうと思って、貰ったのが小学校の女教員だったという人もいる。
みんなその程度の考え方なのだ。
 そして一生うだつが上がらず、ショボショボと下積みの芸人としての一生を文楽と共に送るのが、彼らの大半である。
ある人は50年間足だけしか使えなかった。
ある人は一生口上使で終ってしまった。
ある人は人形の修理で一生を終った。
ある人は大序のままで終り、ついに拍手の来るサワリを語る機会がなかった。
 そして、このような真の二流の人がなければ、文楽というものは興行できないばかりでなく、文楽というものを代表しているのは、実にこうした真の二流の人たちなのである。
 名人がなくなれば文楽は亡びると思われている。
私も一時は迷信的にそう感じたが、名人がいなくなった文楽は、恐らく場末の二流芸術として生き残り、わびしい、卑俗な、二流の芸を、庶民相手に見せながら、文楽というものが結局小市民の二流の芸術であったという点を明らかにするのではあるまいか。
そして、その時こそ、文楽の忘れられていた魅力が改めて甦るのではなかろうか》←鋭い!愚直に修業していきたいものだ。