12月19日(金)素浄瑠璃『嫗山姥』@早稲田小野講堂にお見えの井上達夫先生(東大名誉教授法哲学)から感想をいただきました。長文ですが披露させていただきます!
『嫗山姥』の「廓噺の段」、素浄瑠璃で丸一段語り通す公演、楽しませていただきまし
た。
この曲、「こもちやまんば」と読むその題名も不思議でしたが、なんといってもその中身がこれまで鑑賞してきた文楽作品の中で、最も「驚異的」なものでした。
「驚異的」というのは読んで字のごとくで、そのストーリーの「異様」なることに驚かされました。
しかも、異様であるにもかかわらず、いや異様なればこそ、そこに人間という存在の両義性が鮮烈に表出されていることにも驚かされました。
遊郭の二人の傾城、八重桐と小田巻が、一人の男、坂田時行をめぐって、取っ組み合いの大喧嘩、それに両者の取り巻きも加わって楼閣を滅茶苦茶に破壊してしまうという、
八重桐の長セリフで語られる情景がまずびっくり。
遊郭の太夫と言えば最高位の遊女で、大名すら相手にするという吉原の花魁のように、きわめて洗練された優美な女性のイメージ。
それが二人そろって、皮肉の言い合いを超えて、女子プロレスさながらの大格闘。
しかも「女番長(スケバン)」のごとく手下も加勢させ、ヤクザの組と組との抗争よろしく大喧嘩にエスカレート。
地震か洪水が襲来したかのように破壊の限りを尽くしてしまう。
それで八重桐は廓を追われる。
時行との夫婦生活も仇討ちを理由に時行が出奔して破綻する。
まず、これで、遊郭の傾城についての私の固定観念が打ち砕かれました。
人間の醜悪な欲望を上品な作法で隠しつつ制御し昇華させる「美しき嘘の世界」の演技者という私のイメージを打ち壊して、この曲で近松が描いたのは、一人の男への激しい
愛欲を暴力的に、後先考えず直情的に追求する一人の生身の女の赤裸々な姿です。
しかも、この愛欲は「ふと逢い初めて丸三年、何が互いの浮気盛り、……夜昼なしの床入りに」と八重桐が語るように、剥き出しの性愛の肉欲と直結している。
これはまるで、昭和の「阿部定事件」を描いた大島渚監督の映画『愛のコリーダ』に出てくる、定と吉蔵ではないか。
「懸鯛様と異名を受け」という八重桐のあからさまな言葉が衝撃的です。
「懸鯛」とは二尾の鯛の腹と腹を藁縄で結び合わせて、正月など祝い事に飾る縁起物ですが、これはまさに男女の「交合」の姿を描く比喩。
「近松門左衛門さん、ちょっとこれ、エロ過ぎませんか」と言いたくなります。
作品の設定時代は平安時代中期ですが、八重桐は時行と、昭和初期に定と吉蔵がそうしたように、夜昼なく交合し続け、互いを肉体として貪りあうような最も直接的で原初的
な愛の形を貫きました。
これは、原初的と言いましたが、動物的ではなく、あくまで人間的、あまりに人間的なのです。
動物は繁殖期にしか性交せず、繁殖とは無関係に性愛的結合を止むことなく求め続けるのは人間だけですから。
しかし、人間のその姿は、理性的存在というような崇高な文明化されたものではなく、もっと根元的な人間の野性に根差すもので、その意味で原初的な人間の愛の形なのです
。
激しい性愛は、激しい暴力性と裏表一体。
定は吉蔵を性交のオーガズムのさなかに絞殺して、そのペニスを切断し、自分の着物の帯の中に秘蔵しました。
八重桐はその性愛から流出する暴力性を、恋敵の小田巻との格闘、そして自己を縛り付ける遊郭の破壊に向けました。
近松の本作初演は1712年(正徳2年)で、『愛のコリーダ』が公開されたのが1976年ですから、近松は大島渚が20世紀後半に描いた男女の性愛の極限的な実相を、260年以上
前に文楽作品の中で描いていたのです。
大島が描いた定と吉蔵の世界は、師匠も学生時代に傾倒されたという吉本隆明の言葉で言えば「対幻想」の世界。
国家やら社会など「共同幻想」の世界などどうでもいい、この二人の絆だけが命、という世界です。
吉蔵が街の通りで大日本帝国軍の隊列の行進とすれ違いながら、隊列に対してまったく関心を払うことなく一人歩き続けるシーンが『愛のコリーダ』にあります。
これは吉蔵が定との対幻想の世界にのみ生きていること、しかも、それが国家という巨大な共同幻想を完璧に空無化させるほどの重さを彼の中でもっていることを象徴的に示
しています。
日仏合作であるこの映画のフランス語タイトルは『官能の帝国(L’Empire des sens)』ですが、このタイトルは、定と吉蔵にとって、二人の性愛の世界が、共同幻想として
の国家と対峙してもそれを撥ね退けるほどの存在感をもつことをよく示していると思います。
近松の『嫗山姥』で興味深いのは、大島の『愛のコリーダ』と同様に、八重桐と時行の性愛の生々しいリアリティを描きながら、物語を二人の単なる対幻想に回収せず、二人
の性愛の世界を、讒言により窮地に追い詰められた源頼光の政治的復活、すなわち国家的正義の再生という共同幻想の主題に接合していることです。
しかし、その接合の仕方がまた「驚異的」です。
仇討ちのため八重桐と別れて出奔した時行は、ひょんなことから源頼光の許嫁である沢瀉姫の屋敷で八重桐と再会し、彼女から、仇討ちは既に彼の妹が助っ人を得て成し遂げ、その妹を源頼光がかくまったがために、平正盛や右大将高藤らの讒訴により勅勘の身となったことを知らされ、その愚昧ぶりをなじられます。
それを知って己の無能を恥じた時行は切腹する。
しかし、その切り口から血とともに「焔の塊(ほのおのまろがせ)」が飛び出し、これが八重桐の口に入り、彼女は一旦息絶えるが、鬼女の山姥となって復活し、沢瀉姫を拉致するために現れた平正盛の郎党たちをその剛力によって追い払います。
死の直前に時行は自分の魂が焔の塊となって八重桐の胎内に入ること、それによって八重桐は胎児を身ごもる山姥となるが、その胎児は、より勇猛な男となって生まれ変わる
べき時行自身であることを知らせ、その胎児を生んで育てて、平正盛・右大将高藤らを征伐させてくれと八重桐に頼んで絶命しました。
八重桐は屋敷も門も跳び越えて、山中に入り、時行の頼み通り、男児を生み育てるが、その男児が熊をも投げ飛ばす剛力の怪童、足柄山の金太郎で、長じて源頼光四天王の一
人、坂田公時となります。
以上のような後半の話は「荒唐無稽」にも思えます。
しかし、男女が情死してこの世で遂げられなかった恋をあの世で成就するという「心中物」とは異なった、もっとダイナミックで、逞しく、大きな愛の力を感じさせます。
時行と八重桐は性愛の世界の極限にまで突き進むことによって、それを超えた「大きな義の世界」に、自らの死と再生・転生を通じて飛躍していった、それが、近松がこの曲
で描きたかったことではないでしょうか。
女性が神秘的な力によって懐胎し、異次元の存在を産み出すという視点は、クリスチャンである師匠に対して失礼な比喩にならないことを望みますが、マリアの処女懐胎にも
通じるものがあるのではないでしょうか。
もちろん、マリアが山姥に化身した遊女だとか、キリストが金太郎だなどと言っているわけではなく、霊的懐胎により超越的存在の受肉を媒介する女性の宗教的な役割という
、抽象的意味合いにおける重なりを言っているにすぎませんが。
時代物しかなかった古い浄瑠璃界で、近松は1703年に『曾根崎心中』で世話物という新たなジャンルを開拓します。
しかし、彼は男女の対幻想が濃密に描かれる世話物で名声を博しながらも、それだけでは満足できず、時代物の叙事詩的なダイナミズムとスケールの中に世話物のミクロな人
間的リアリティを埋め込むことで両者を総合したくなって、1712年にこの『嫗山姥』を書いたのではないかと推察します。
もしかしたら、これが本来の近松門左衛門の文楽世界なのかもしれません。
最近、録画しながら見ていなかったNHKの近松門左衛門に関する番組を見ました。
近松の初期の作品『出世景清』(1685年初演)は一般にはめったに演じられなくなったようですが、石川県のある村落でそれが伝承され、いまでも村の劇団により近松時代と
同じ一人遣いの人形で演じ続けられおり、その公演の一部が動画で紹介されていました
。
この作品では、有名な『檀浦兜軍記』の「琴責め」に耐える阿古屋とは異なり、愛人を裏切る悪女として阿古屋が登場するのですが、彼女が単なる悪女としてではなく、嫉妬
から愛人の景清を裏切ったものの、彼女を獄中からなじる景清の前で、後悔の念から自害する姿が描かれています。時代物の中に世話物的な男女の愛の葛藤を埋め込むという
手法が既に明確にとられているのです。
いずれにせよ、近松門左衛門というと私はすぐに心中物を想像してしまいましたが、今回の『嫗山姥』の公演を鑑賞して、彼の世界がもっと深く、広く、極私的リアリズムと
公共的物語としての歴史が、ダイナミックに絡み合う雄渾な世界だということが分かりました。
前半の八重桐の長セリフは男女の対幻想の極私的リアリズムを表出し、後半の時行の瀕死の念願はそれを大義の世界に昇華させる意志を表出していると思いますが、児玉教授
の司会で三味線の鶴澤清介師匠と公演後に行う恒例の鼎談で、若太夫師匠はこの二つの重要なセリフがこの曲の二つの要であると指摘されていました。
しかも、それを単調に大声で語るのではなく、メリハリ・起伏をつけながら語ることで聴衆の心により響かせることができること、そのため、今回の公演前に毎日数時間、こ
れらのセリフを繰り返し練習し続けられたとおっしゃっていました。
「80歳になっても進化し続ける」と宣言された師匠の日々の鍛錬の姿に脱帽すると同時に、この曲のツボを御教示いただいたと感じました。
以前、師匠がご著書で、文楽は話の筋だけを見ると荒唐無稽に思えるが、それを名義太夫が語るのを聴くと、不思議と自然に納得してしまうという趣旨の谷崎潤一郎の言葉を
紹介されていることに私は触れて、師匠の語りこそ、まさにその「声の魔術」であると述べたことがあります。
今回も、この『嫗山姥』「廓噺」の素浄瑠璃公演で、師匠の声の魔術に魅惑され、荒唐無稽に思える物語から師匠が語り出された人間世界の真実について、様々に思いを巡ら
せていただきました。
『嫗山姥』は後続の段も面白いとのこと、その公演の機会も楽しみにしております。
長文失礼しました。
井上達夫


