森田美芽
令和7年4月の国立文楽劇場では、なんと21年ぶりとなる『義経千本桜』の通し。5年前、まだ吉田簑助や豊竹咲太夫が存命であった折の配役を見ると、このお二人の他にも、引退や逝去でなくなった名前のいくつかが痛ましく思われる。しかし、舞台はいま、ここで演じられるものが全てである。だからこそ、亡くなった名人よりも、いま懸命に演じる若手を評価しなければならない。これは同時代に生きる者の義務である。
『義経千本桜』は、二段目、三段目、四段目と、それぞれ主人公も趣向も全く異なるドラマが展開される。その底流に、義経・頼朝の家族の対立がある。その悲劇の連続と、段切れを飾る一面の桜。運命の残酷さと人の情。現実と幻想が美しく交錯し、そこに不思議な高揚を生み出す。三大名作の中でも、特に人気が高いと言われる所以であろう。
大序「仙洞御所の段」は若手の修練の場。織栄太夫は精一杯の高音を、碩太夫は詞をしっかりと、 薫太夫は「コレコレ義経殿」の強さ、聖太夫は朝方の悪意を丁寧に。三味線は藤之亮、清方、清允、燕二郎、いずれも健闘している。
「北嵯峨の段」は省略されている。三部制の問題として、どうしても各部の入れ替え時間が必要となる。ここが出ないと、若葉内侍の存在が薄くなってしまうのだが。
「堀川御所の段」藤太夫、燕三。問う川越太郎の詞、続く義経の長い詞のうちに、平家の3人の人物描写、とりわけ「兄頼朝は鎌倉山の」からの身の嘆きに説得力。ここがしっかり効いているので、この後の義経の流浪の意味が底流として全体を貫くのが見える。
アトは亘太夫、友之助。弁慶の短慮と他の人物を対比される、一本気な語り。友之助がその一途さを表わす。
そして川越太郎の、娘を失った嘆きと、あっぱれと誇らしい気持ち。こうした肚を遣うのは玉志。紋臣の卿の君、やや前かがみの姿勢であるからか、やや線が細く見える。玉佳の弁慶の大きさとある意味忠義しか見えない単純さ。
二段目、「伏見稲荷の段」希太夫、團七。奇跡は黙って味わうに限る。團七の糸の艶やかさ。希太夫は端正にこの状況の人物を語り分ける。
『渡海屋・大物浦の段』口小住太夫、清馗。中芳穂太夫、錦糸。切錣太夫、宗助。
小住太夫は伸びやかに、清馗の糸は清らかに、やや世話の趣もあるこの場のやり取りを聞かせる。男気ある銀平、情けある女房おりう、このことに涙する義経の労しさ。
「幽霊」とも呼ばれる。知盛の本性を現し、すっくと立った知盛の白銀の装束が凛々しい。おりうは典侍局に、お康は安徳帝に。おそらく、当時の観客をあっと言わせたであろう変化を、玉男、和生の代えがたい存在感と品格。そして安徳帝の簑悠、長時間形を崩さず、健気であり、また究極の権威を体現する難役をよく遣った。芳穂太夫と錦糸は何よりこの世界の変化を表現した。
錣太夫はこの格を求められる長丁場、特に典侍局の品格、安徳帝を守る気概をよく示した。知盛の最後に至る過程、特に安徳帝の変化に対する知盛の心情が、伝わりにくいところだが、これも天皇を絶対とする姿勢とすれば納得。一か所、やや世話に流れたように感じたが、品格の内に情を保ち、知盛の矜持をよく伝えたと思う。
前半、銀平、おりう、お安による疑似家族は、後半に安徳帝とそれに仕える典侍局という女官、安徳帝を供奉する平知盛という正体を現し、知盛が義経に返り討ちにあった時、その絆は崩壊する。安徳帝は知盛にとって、平家の再興のための手段にすぎなかった。典侍局は安徳帝を守らなければならないはずが、守ってくれる知盛がいなくなれば、局は安徳帝を源氏方に引き渡すよりはと死を選ぼうとする。そこで義経が帝を奪うと、知盛は帝を供奉するという名目もなくなり、潔く大物浦に身を投じる。それぞれが自分の利益のためにと集まった疑似家族はその名目が失われた時に崩壊する。残された安徳帝は、この後、どうなったのだろうか。帰るべき家族はもう彼女にはないのだ。
第二部、三段目「椎の木の段」咲寿太夫、團吾。
嵐の前の静けさ、というか、田舎の平和な日常、紋秀の小仙は健康な田舎娘がそのまま女房になったような可愛らしさで愛想よく振る舞う。玉征(後半勘昇)の生き生きした子どもらしさ。そこに現れる奇妙な一行。咲寿太夫は場の雰囲気にふさわしく、やりすぎず人物を描写し、團吾は手慣れた優しさ。奥は三輪太夫、清友のベテランコンビ。権太の語りに凄みがあり、それでいて息子には弱い、そんな人物像を伝える、清友の糸にほっとする。
「小金吾討死の段」津國太夫が小金吾で、若々しさよりも忠義を聞かせる。内侍の南都太夫は不安気だが、弥左衛門の文字栄太夫が、腹に一物の性根を聞かせる。薫太夫は子どもから中年まで、きちんと語り分ける姿勢。清丈が本当に頼りになる。
「すしやの段」前呂勢太夫、清治。三下がりの、春ののどけさと不穏な雰囲気が綯い交ぜの弾きだしから、リズミカルに鮓屋の店先の風情、母と娘、すでに婿のように接するなかに、権太の登場。母を騙して金を手に入れようとするが、「しゃくりいいいあげても」がやや長いのはどうしてかと思っていたら、その後の弥左衛門との対話の後、お里との同衾を拒む述懐までで、後半に渡す。だがここまでの詞の捌きのうまさ、わけても弥左衛門の「私めは平家御代盛の折から。唐土硫黄山へ。祠堂金お渡しなさるる時音戸の瀬戸にて船乗りすへ。三千両の金分け取りにいたした船頭」がしっかりと響いている。これを若太夫、清介がしっかりと受け止め、後半のドラマとなる。
「神ならず仏ならでは」と、思いがけない若葉の内侍と六代君との再会。しかしお里とのさや当てのような緊張感の後の、お里のいじらしいクドキ。そこへ梶原の襲来と、兄の権太が敵となる家族の葛藤。そこへ敵の登場。若太夫はこの梶原に対する権太の詞が面白い。金のためなら親をも売り、権力に媚びるいやらしさ。なのに権太は、名残惜し気に女と子どもを見やっている。弥左衛門が、息子に刃を向ける。刺し貫く。甘いはずの母さえも、「コリヤ天命知れや不幸の追、思ひ知れや」とまで言う。弥左衛門の「三千世界に子を殺す親というのは俺ばつかり」の痛ましさ。そして権太が、維盛一家を呼び出して自分の本心を吐露する、自分の過去を悔い、再び家族の絆を取り戻そうとする、そのために妻と我が子を身代わりに差し出した、その思いのたけが悲痛である。
そして段切れに、断末魔の権太をおいて若葉の内侍らの供をしようとする弥左衛門の詞、「エエ現在血を分けた倅を手にかけどう死に目に遭はれうぞ。死んだを見ては一足も歩かるるものかいの。」ここに、この三段目の悲劇のエッセンスが集約されている。元はといえば、父弥左衛門が盗賊であったという前身に、その罪を許してくれた平重盛への恩報じのために、維盛を助けようとした。しかし自分の罪の故に、息子は悪者となり、その息子の回心のために、嫁と孫も失い、いままた息子を失おうとしている。全ての原因は弥左衛門自身にある、その因果が、家族を引き裂き、喪わせている。これほど深く救いようのない家庭悲劇があるだろうか。弥左衛門は自分の過去を呪っただろうか。維盛が供養すべきは、父にまつわるこうした人々の人生なのだと思わされる。
若太夫の語りが、その悲劇の深さに気づかせてくれた。これまでは、権太を中心に、彼の親子関係を回復したいという思いが生んだ家庭悲劇と思っていたが、弥左衛門こそがこの悲劇の中心にあった。それらの人物一人ひとりを描きながら、なおこの主題を結びつける清介の糸の見事さ。この骨太の弥左衛門像を構築した玉也、そして気丈な母を遣った勘壽。それがあればこそ、権太の悲劇が生きる。玉助は権太の悪さを強調し、妻子を見送る眼差しに本音を見せる。清十郎のお里は、前半は恋する娘で、出てきただけでぱっと舞台が華やぐ美しさと、後半は身分違いを知りながらその思いを断ち切れない辛さも。苦しむ権太の蔭で、ほとんど語りには出てこないが、兄を案じ、父母を気遣い、それでも高野山に向かおうとする維盛への眼差しに、断ち切れない思いを滲ませる。勘彌の維盛が、どこか他人事のような超然とした風情で、玉勢(後半簑紫郎)の梶原がしっかりと敵わない悪を演じ、簑紫郎(後半玉勢)の主馬小金吾の前髪の凛々しさ。簑一郎の若葉の内侍は控えめな美しさで、玉延の六代君も身分を感じさせる。
第三部、四段目「道行初音旅」。これまでの暗鬱たる気持ちを忘れさせるような、しばしの幻のような華やかさ。藤蔵、清志郎、寛太郎、清公、錦吾らの一糸乱れぬフシオクリの旋律、碩太夫の「したひゆく」で紅白幕が切って落とされ、一輔の静御前がこちらを向く。馥郁たる花の装い、そして勘十郎の狐忠信。見台抜けで登場し、満開の花の下、静と二人での八島の合戦の物語。一輔の静は、扇を刀に見立て、戦いを再現する。その大きさ、決まりの鋭さ。武士の忠信に、凛として向かい合う。静は織太夫、忠信は靖太夫。織太夫は「それより吉野にまします」の矢声に苦しみながらも裏には逃げない。靖太夫は低い音が続くと膨らみに欠ける。全体としてもう少し厚みがあればと思った。
「河連法眼館の段」中睦太夫、勝平。武将同士の争い、義経の短気さ、勝平の強さが生きる。睦太夫は「八幡山崎」の節が懐かしく聞かせる。
切、千歳太夫、富助、ツレ燕二郎。静の詮議から狐の独白の長い語り、それも狐詞をじっくりと、なぜこの鼓なのかと、親に孝行が尽くしたい、との一途な思い。「暗示過ごしがせかるるは、切つても切れぬ輪廻の絆、愛着の鎖に繋ぎ留められて肉も骨身も砕くるほど」と、なぜここまで親に孝行がしたいのかと思えるほどに。
だが、その語りの力を超えていくほどに、勘十郎の狐忠信は、舞台を縦横無尽に動き、最後は宙乗りで桜の空を飛び去っていく。おそらく多くの観客は、陶然として、その動きに魅せられ、何もかも忘れて舞台に見入ってしまう。
でも、この感覚はなんだろう。四段目は明らかに狐が親子の情を人間以上に持っていることを示している。でもなぜここまで親狐を追うのだろうか。
ある意味、それは得られなかったからこそ、自分が子狐のうちに親を失ったという喪失から、かえって理想的な家族を求めずにおれない。喪失から始まる家族愛。その必死さが、初音鼓を与えられたことで、狐の一家は再構築されたのだ。だが、義経にとっては、親を失い兄との対立には和解が遠い。人間の家族としては、やはりその傷は癒されてはいないのだ。
だがこの場では、まさに狐に幻惑されて、物語が良いように終わるかのような幻想を抱かせられる。それも勘十郎の圧倒的な狐忠信の力量によるものである。初役の一輔は、最初、緊張でどう動くか、まだ自信が持てないように見えた。だが中日以降、吹っ切れたように自分の動きを出せるようになった。それでも、まだ静本来の、コケティッシュな魅惑的な輝きには届いていない。それが静という役の難しさと思う。簑二郎の義経は、品格よりも短気さが前に出る。玉誉(後半簑太郎)の亀井六郎は力強く野性的な魅力、玉彦(後半勘介)駿河次郎は検非違使かしらの凛々しさ。文昇の代演で文哉が佐藤忠信を律儀に使う。
今回の『義経千本桜』は、そうした狐の幻惑に陥りながら、その向こうに様々な家族の崩壊が透けて見える、時代物の本格的な構成と人物配置の上に、人間悲劇を個性的に語る、その両者の調和を強く感じた。この後、何年後に、再びこの通し上演が巡ってくるのだろうか。その時はこの幻惑を再び感じるのだろうか、それとももっと違うものが見えてくるのだろうか。