「野崎村」の謎――2025年1月

森田美芽

なぜ「野崎村」でおみつは、尼になるという決断ができたのか。

『新版歌祭文』はお染久松ものの代表で、近松半二の作。
お染久松の悲劇を題材にした物語は先行の菅専助『染模様妹背門松』などの趣向を取り入れながら、全く異なる世界を作り出している。その鍵となるのが「おみつ」という一人の少女の存在である。

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『染模様』では基本的に、お染と久松は愛し合っているが、親たちは義理ゆえにその恋の反対し、二人もその義理ゆえに心中にいたる。二人を取り巻く人物は、お染の許嫁山家屋清兵衛は男気ある抜け目ない町人、お染の母や父も娘を思い順々と道理を説く。久松の養父久作も革足袋で久松を諫める。善六はお染に横恋慕して破滅する三枚目。こうした設定を転用しつつ、全く異なる人物造形が展開される。その細かい心理描写が、詞の端々に伺われる。分けても驚くべきは、「おみつ」という少女の造形と、三角関係の設定である。

「座摩社の段」三輪太夫、津國太夫、文字栄太夫、南都太夫、咲寿太夫、亘太夫、清友。

山家屋佐四郎はここではお染にぞっこんで、その弱みに付け込まれ、小助や山伏法印にも騙される。とはいえ大家の主人であるから、無駄金は使わない。こうした中年の危機と世慣れた感覚を南都太夫が、騙して金を巻き上げる小助の故悪党ぶりを三輪太夫が、リアリティで自然に笑いを呼ぶ。いい加減な占いを神妙に語る法印の津國太夫のおかしみもいい。
もう一人、南都太夫が音程を変えて、悪を企みながらころっと騙される弥忠太、だはの勘六を津國太夫が、岡村金右衛門を亘太夫が、この三人のコンビネーションで、誰が本当の悪人かと笑わせる趣向。それに対比させるように、お染の咲寿太夫と久松の亘太夫は、幼いと思われるほど純粋に思い合っている。咲寿太夫も娘の発声が安定してしかも深まった。亘太夫は男の強さの中に若々しさを表現できている。清友が時に楽しく、時にリズミカルに、時に神妙に、この場の全体を支える。ここは現代の大阪を見るような感覚。

「野崎村の段」中、希太夫、清志郎。「花も時知る野崎村」から、前の段とは一転してのどかな田舎の風景になる。おみつが登場し、病の母を労わる思いも、久作の義理堅さと小助に立ち向かう強さも、小助が前段と変わってふてぶてしいのも、その雰囲気を感じさせる詞の動き。清志郎は粋な感さえある、こうした世話物の柔らかさを聞かせる。
そして端場の終わりの方に、「我らはまた頭を丸め参り下向に打ちかからうと、頼み寺へ願うて袈裟も衣もちやんと請けておいたてや」の一言を不気味に耳に残している。ここではおみつに祝言をさせるとめでたい話であるはずなのに、私も初めてここが耳に残った。

玉路の祭文売りがうまく芝居に惹きつける。簑一郎の小助、前段からの性根をうまく継続している。

、織太夫、藤蔵。「後に娘は気もいそいそ」からの、うきうきしたおみつ、そこへ不安そうに現れるお染。おみつに拒まれ、「コレコレ女子衆、さもしかれどもこれなりと」と香箱を差し出す。無意識に相手を下に見ている。それも、相手が誰であるかもわかっていない。おみつの方は久松の事件と恋について知っているのに、無関心というよりも、彼女は自分の思いと久松しか見ていないことがわかる。
だからこそ、前半のおみつは明らかに敵意を見せる。単純に恋のライバルという以上に、身分違いとでも言おうか、まともに勝負すればお染にはかなわないとわかっている。だから久松を遠ざけようとするし、久作に灸をすえる時も、外ばかり気にしている。そして久松も、久作も、お染に気づく。

織太夫のお染のクドキの見事さ。「二人一緒に添はうなら飯も炊かうし織り紡ぎ、どん貧しい暮らしでも」こうした詞を言えるのは、やはりお染が忠義やお主への義理よりも、久松への思いだけしか見ていないのがわかる。そして久松も「ハアたつて申せば主殺し。命に代へてそれほどまでに」と、彼にとってはやはり主筋への義理や慮りがあるのに。

「悪縁」で切っての若太夫、清介に渡す。ここではまず、久作の二人への諄々と道を説く、それも父として、お主に対する義理をも。お染に対しては、久松が非難されるのがこの世間の常、と道を説く。これは『染模様』の逆である。
『染模様』ではお染の方が、山家屋に嫁げば、世間は自分を欲のために久松を見捨てたと噂するだろうと言っている。だが「野崎村」のお染はそれすら気づかない。ひそかに久松と、添われなければ死ぬ、という黙約を交わす。

再登場するおみつ。先ほどまでの感情丸出しの動きと逆に、明らかに空気が違う。そしておみつが髪をおろし出家したことに気づいた久作は、自分が良かれと思ってしたことも、逆の結果になってしまったことを嘆く。

「死なしやんすを知りながら、どう盃がなりましょうかいの」。そのおみつのクドキの中の一言、「母様の病、どうぞ命が取り留めたさ」この一言が若太夫の口から発せられたとき、初めてのような気がした。これまで何度も見て、聞いてきたのに、どうして気づかなかったのだろう。初めて、端場で語られたあの袈裟の由来と、ここが繋がった。
おみつが身を引いたのは、お染に恋を譲ったのではない。自分が久松に執着した結果二人を死なせれば、その悪の報いは母に向かうかもしれない。素朴だが、昔の日本人の道徳意識、つまり悪を犯すことはその悪の報いを受けることになる。だから、そうした状況を見れば、「野崎村」のお染の純情と、おみつの献身が実に純粋なものとして迫ってくる。

この場では終始、上手の襖の向こうに、姿を見せない婆がいる。おみつは終始上手を意識している。病の篤い母に心配をかけまいとしている。最初お染に嫉妬していたおみつは、尼になって身を引くという、 辛い決断をする。迷いはなかっただろうか。でも、それしか久松と母、二人の愛する人を救えないとなった時の、少女の潔さ、強さが胸を打つ。この清十郎のおみつの造形の見事さ。
お染の紋臣は、ゆったりと町家のお嬢様の悪意のなさ、純粋さを見せる。文昇の久松、品はよく、気後れしがちなところも。和馬が下女およし。短くとも確かな存在感を持っている。油屋お勝に勘壽。そこにいるだけで、御寮人様の貫禄を漂わせる。これにはお染も従わざるを得ない。玉也の親久作、細やかな配慮、親として道を説く、娘への思いと嘆き、この久作の動きあればこそ、おみつもお染も説得力があるのだと感じた。

段切れ、華やかな三味線に乗って、船頭の楽しい動きがある。今回は川に落ちる演出ではなかったが、簑太郎は楽しく見せてくれた。ツレ弾きは清方。最近、最初は彦六系のチリツン、二度目は文楽系のチリチリツンと弾かれる。「舟と堤は隔たれど」と、駕籠屋の二人、玉延と簑悠の足拍子の小気味よさ。年の内の春だから、寒さの中にも僅かな光が見える、梅の香がかすかに届くような、そんな感覚を覚えた。

第二部は、昨年11月の 『仮名手本忠臣蔵』の続きの八、九段目に当たる。

「道行旅路の嫁入」は呂勢太夫、靖太夫、碩太夫、聖太夫、織栄太夫、三味線は清治、清馗、友之助、清公、清允。戸無瀬が和生、小浪に簑紫郎。

八段目の道行は、こんな哀しい道行だっただろうか。本来なら喜びに溢れる嫁入りが、先行きもわからず供も連れず駕籠にも乗らず、ただ一縷の望みにすがって、長い旅路を女二人で歩んでいく。この戸無瀬と小浪は、姉妹のようにも見え、京が近づくにつれ、思いが高まってくるよう。

九段目「雪転しの段」は睦太夫、清丈。「風雅でもなく、洒落でなく」の難しさ、笑いではなく後に来るものの深刻さを僅かに匂わせる難しさ。ここは睦太夫も清丈も健闘しているが。

「山科閑居の段」切千歳太夫、富助。後藤太夫、燕三。
「人の心の奥深き」の重く、ずっしりとこれまでの全ての苦衷と嘆きをのみ込んだような一段。お石の、 加古川本蔵への恨み、何とか娘の幸せを願う戸無瀬、黒と赤の激しい戦いに、純潔無垢なる小浪の白。父本蔵の、娘のために婿の手にかかるという情愛。
前半の、戸無瀬が娘に覚悟を迫り、小浪が凛として自分の覚悟を述べる、その詞の端々に、武家の誇りと娘への愛を滲ませる見事な語りを聞かせる千歳太夫と、その思いに呼応する富助の糸の繊細。後半は本蔵の娘への思いを語りをリズムに乗せて聞かせた藤太夫、燕三。そしてここに和生、勘十郎、玉男の三人の人間国宝が顔を揃える。

玉男の由良助。雪の遊蕩の名残の色気から、後半の本来の力まで、格と風を伝える大きさ。

力弥は玉勢。若武者の潔さ。 加古川本蔵に勘十郎。肚のある、それでいて娘への思いを十二分に伝える。対する戸無瀬の和生と、ここで人間国宝三人の顔を揃えるが、いずれも格負けないようにということか。簑紫郎の小浪は愛らしく清らかだが、もう少し強さが欲しい。一輔がお石、前半の恨みを述べ戸無瀬をはねのける強さと、後半の嫁への思いやりを十分に描く。この人の成長が大きい。

第三部、今回の『本朝廿四孝』は、後半の見せ場である「十種香の段」「奥庭狐火の段」が中心。でもそこに至る経緯を付けている。

「道行似合の女夫丸」濡衣は睦太夫、勝頼は希太夫、亘太夫、薫太夫。三味線は團七、團吾、錦吾、燕二郎、藤之亮。ここは恋人同士の道行ではない。全体にやや物憂げであったり、怪しげであったり、團七が元気でリードするのを見る頼もしさ。

「景勝上使の段」靖太夫、勝平。ここで長尾謙信に、息子の景勝が上使として遣わされる。そこに花守り関兵衛と花作り簑作が現れる。この背景の複雑な人物関係を、靖太夫が凄みを効かせ、勝平が手強く支える。

「鉄砲渡しの段」小住太夫、寛太郎。ここも謎めいた一段。小住太夫が関兵衛と謙信の腹に一物のやり取りを印象的に語る。寛太郎は安定して聞かせる。

「十種香の段」切錣太夫、宗助。八重垣姫の恋心と濡衣の、ここに至る複雑な人間関係を匂わせながら、なおも恋する相手しか見えない八重垣姫の一途を、実に丁寧に語り伝える錣太夫、宗助。

「奥庭狐火の段」芳穂太夫、錦糸、ツレ友之助、琴清允。そして八重垣姫は、父の陰謀を阻止するために、追手より先に勝頼に追いつこうとする。諏訪法性の兜の奇瑞が起こり、姫に白狐が力を与え、人を超えた動きをする。どうしても人形が主役と思われる場面だが、芳穂太夫は丁寧に、八重垣姫の情熱、そこからの狐憑きへの変化を内面から表現する。錦糸がこの奇瑞の前の怪しさ、狐が主体となるような激しさを聞かせる。
簑二郎の八重垣姫は、品よく美しいが、この場で超自然的な力を受ける不思議、激しさを十分に表出しきれてはいない。勘彌の濡衣が、夫を奪われた者の翳りをたたえる美しさ。玉助の簑作は若男の色気十分。玉志の謙信は柄大きく一筋縄でいかない曲者。景勝は玉佳でこれも底ある武将のふてぶてしさ。関兵衛は玉輝で、謙信と対抗する強さと老獪。勘次郎の白須賀六郎、玉彦の原小文治、若々しく力強い。

以前は正月には人が死なない演目、と言われたが、それは文楽では難しいものの、やはり全く異なる世界を持つ三つの作品というのは、どうも座りが悪い。
そして初春公演であるにも拘らず、寒さが影響したのか、三部の入りが寂しかったのはやはり残念である。国立劇場のこれからが見通せないいま、唯一、文楽を専門とする劇場での公演は、このままでいいのだろうか。

公演後、研修第33期の発表会を拝見した。先輩たちに支えられ、精一杯舞台を勤める、太夫1名、人形遣い1名。なかなか良い資質を持つと見受けられた。どうか彼らが希望を持ってこの世界に入ることができるように、そのために日本芸術文化振興会の責任は重い。