春は甦る-2023年初春公演―

森田美芽

  2023年の初芝居。文楽劇場の初日。恒例の睨み鯛、餅花の飾り。和服姿の方が多く華やいだ雰囲気。何よりロビーに溢れる人々の明るい表情。この3年ほど、見ることのできなかった光景だ。

初日、第二部「義経千本桜」三段目、「椎の木」「小金吾討死」「すしや」を見る。

 「椎の木の段」口、咲寿太夫、團吾。千鳥の見台に浅黄色の肩衣。師匠の前を語る覚悟がよくわかる。そして「枯れ残る、身はいとどなほ枝折や」の美しさ、切なさにはっとする。大和吉野の風情を描くところからの人物への転換のスムーズさに、彼の努力の跡を強く感じた。團吾の、そうした風景から人物への転換を優しく支える音色も。

、咲太夫に代わり織太夫、燕三。権太の人物像、出は親しみを感じさせて接近し、安心させて騙りを働く、筋金入りの悪、それも大和の田舎のやんちゃ者が成長してとの武骨さも備えてという描き方。特に「この中ぐくりの解けたは」の表情、「コレ前髪殿」からの性根の変化が面白い。ただ、凄みを効かせるのはよいが、詞が強すぎて語り全体ではなく、そこだけに耳が行ってしまうことがある。段切れ前の、権太の小仙への長い詞は、権太を理解するのに絶対に必要なだけに、惜しいと思う。その流れの中で、小仙の優しさを聞かせる燕三の構成力はさすが。

「小金吾討死の段」三輪太夫(小金吾)、津國太夫(弥左衛門)、南都太夫(若葉の内侍)、聖太夫(六代君・五人組)、三味線は清馗。ベテランの味わい。小金吾が死を覚悟して六代に語る詞だけで泣かせる。詞の中に、これまでの旅路の困難と最後まで二人を守り切れないという無念、若君への遺言、それらが迫ってくる三輪太夫の語り。それを聞いての内侍の嘆きも、頼る者とてない、未来も見えない絶望の色。聖太夫の六代は素直な発声で真っ直ぐに届く。そして弥左衛門の詞で、息子の権太との関係性も、弥左衛門の性格も知れる。短いが的確に人物を表わしその心情を伝える場の全体を、清馗の糸がまとめる。

 「すしやの段」前、呂勢太夫、清治。呂勢太夫は期待通り、吉野下市の鮓屋の賑わいからお里の性格、この家に迫る危機とは無縁に男を慕う娘の心情を丁寧に聴かせる。また権太はあまり乙声ではないが、母をだます手、ころっとひっかかる母と、やはり浄瑠璃の骨格を外さない。ただ、「しやくり上げても」のイイイ、イイイ、がやや長く感じた。無論清治は絶妙の間でアシライの手を入れる。しかし、この後の弥左衛門の説得と、彼がなぜ維盛を匿ったかの事情を語るところが実に響く。これはこの段の要であるのだとすっと伝わるのだ。それゆえ、事情を知らぬお里のうきうきと祝言を待つ有り様が、またそれを突き放す維盛の詞が説得力を持つ。

、呂太夫、清介。珍しく「親御の気風残りける」で盆が廻る。「神ならず仏ならねば」は行き暮れた若葉の内侍と、町人に身をやつし妻を思う維盛との両方の意識。その二人の思いがけない再会と、「詞はなくて三人は泣くよりほかのことぞなき」。
三人がそれぞれどのような思いであったかと、地味にここで泣かされる。そのあとの「供連れぬも心得ず」などと呑気に語っている維盛から、若葉の内侍の苦労の述懐の対比へのスムーズな運び、さらに「かくゆるかしきお暮しなら都のことも思し召し」で内侍の恨みがましさを洗わす。これがあってあとのお里のサワリが効いてくる。お里の嘆きに引き込まれると、一転して梶原の来訪を告げる声、落ち延びるところに権太が維盛を追う。その本音を出した権太に怖れを感じる。
次々と変わる局面に緊迫感はあるが、それを息もつかせず語りきる。なのに、弥左衛門と婆が桶をやり取りするところは笑いを誘う。

権太の再登場。「いがみの権太が生け捕ったり」までは詞、「討ち取ったりと呼ばはる声」は地に戻る。その移り行きが実に自然で、物語の視点がどこにあるかが見える。「私にはとかくお銀」と権太の性根の出る詞は圧巻。梶原が引き込みの時、「暫く汝に預くるぞ」が粒読みで、梶原にも腹に一物あることが知れる。

権太のモドリ。その直前に我が子を手にかける父の「こんな奴を生けて置くは世界の人の大きな難儀ぢやわい」の真に迫る強さ。それに対する権太の真情の吐露が悲しい。これまでの悪の意味がすべて忠義のためであったことが語られ、しかも最愛の妻と子を身代わりに差し出したという苦しみが「コレ血を吐きました」でクライマックスに達する。

そこから、実は梶原が全てを知り、維盛に出家を勧めたことから、自分の全ての犠牲が無意味であったことを悟る、何という悲劇、何という悔い。この物語の最大のどんでん返しがここに結実する。しかしあまり思い入れを取らず、ここからは調子が一段高めて物語を収斂させていく、段切れの運びが切ない。清介、この全体を把握し、時々の場面や人物の変化を見事に把握しきった気合の三味線。

玉助の権太がそうした性根をよく捉え表出した出色の出来。最初の悪人ぶりから嘆く父親の情までスケール大きく描いた。一輔のお里は美しく、サワリの時の複雑な思いも納得できた。弥助実は維盛は玉男、動きの少ない中でも気品を感じさせ、若葉の内侍の清五郎は高貴の女性らしいツンデレなところも母性愛も見せる。小金吾は玉勢、動きが爽やかで的確。小仙は紋臣で優しい母らしさ。弥左衛門の文司は忠義の重みをしっかり出した。弥左衛門女房は勘壽、こういう役では言うに言われぬ説得力を感じさせる。梶原平三の玉輝、敵役だが肚を見せない重さも。文哉が猪熊大之進を動きだけで納得させ、簑之の六代君は幼いながら気品あり、清之助の善太も愛らしい。

 

見たかったものは、充実の舞台に、満員の客席。多くの人が、当たり前のように芝居を楽しめる世。そして、そこで演じられるのは、人形を通して人が生きたその人物の感情を表わし、それが私たち自身の内にも感じられること。舞台を見て登場人物に自然に感情移入していき、自分自身が当事者のように感じ、つかの間、別の人生を生きるように、そして終われば自分自身の現実に戻っていく、そのような分かたれた時空、特別な時間が欲しいのだ。それを十分に感じたこの初日。私はまた劇場に向かうだろう。再びこの感情の高まりを経験するために。

掲載、カウント(2023/1/8より)