天よりの音-2022年12月 ゴスペル・イン文楽×能楽

森田美芽

大阪ビジネスパークのホテルモントレ・ラスール15階の「天星殿」は、天に開かれた能舞台がある。能舞台を覆う屋根の上に天窓があり、昼は陽光が降り注ぎ、夜は星の光が差す。

金春流太鼓方の上田悟氏と呂太夫の、30年に及ぶ友情の結実。星降る夜の静けき光の中で、ゴスペル・イン・文楽に能楽の狂言方・囃子方が加わり、不思議な、また清冽な舞台が繰り広げられた。
折りしもクリスマスを控えた12月23日、寒風身を切る如き嵐の中で、そこだけは別世界の穏やかさと沈黙と支配していた。その後の衝撃も忘れ難く、ここにしたためる。

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まず、上田悟氏とご長男の上田慎也氏による、太鼓連調「祈り」。舞台の沈黙を穿つ一打、そしてリズム。それは遠くより近づく足音のように低く始まり、鋭く空を切り裂く。撥は垂直に面の中央に降ろされ、音が無の空間から生まれる。天から降る音のように、それは厳粛に、弛緩なく妥協なく、やがて二人の音色が呼応し語り合い、また追いかける。祈りとは呼吸すること、その呼吸が相通じること。天に向けて語られた言葉は、再び地に降りて空しくなることはない。

そしてゴスペル・イン文楽×能楽。その初演から関わり、何度も繰り返し見てきたこの演目に、このような新たな展開があろうとは想像できなかった。

第1章「イエスキリストの生誕」。始まりは能の四拍子(四つの楽器。笛、小鼓、大鼓、太鼓)。いつもは三味線による『三番叟』の冒頭の荘厳な旋律だが、野口亮氏の笛は旋律なしにその時空を貫き、天を切り裂いて時をそこに迎える。

マリアの登場。能舞台は三方に開かれている。背後には囃子方が並ぶ。その中で虚空に浮かぶようなマリアの足取り。
清十郎のマリアは、初演の時よりもさらに若々しく、純粋な乙女の姿。マリアのまなざしの先には御使い。マリアの孤独、歴史上ただ一人の不条理に堪える健気な処女。それは2000年前のナザレでの光景が、時空を超えて現代のこの場所に同時的に生じているように思えた。
そして生まれた嬰児に貢物を捧げる東方の賢者たちを狂言方の山口耕道氏、山本善之氏が見せる。軽妙なやりとりで、嬰児が世の救い主として来られたことを示す。産まれたばかりの我が子を抱くマリア。この母性の表現は無論のこと、今回のマリアは、まるでこれからこの子のたどる運命を予感しているかのように、「心が剣で貫かれる」ことを知っているかのように見えた。

第2章「イエス・キリストの生涯」イエスのかしらは俊寛、しかし衣裳はこれまでと全く違い、半分裸で体を見せる。文楽では肉胴を使っている。
貧しきイエスに伴う、狂言方の舟頭と弟子。作り物もなく、ただ櫂の動きで舟を操る。ワキ方の位置で眠るイエス。嵐に翻弄され、左右に転がる山本氏の軽やかな動き。狂言方の身体能力の凄さを垣間見る。
嵐を鎮めるイエスは勘市。再び、三味線と四拍子の合奏。いな、合奏ではなく、異なる世界がクロスする混沌。
休憩をはさみ、第3章「最後の晩餐」

「癒し求めてひとびとは」から。パンと葡萄酒を捧げるイエスの覚悟。印象的な希太夫のユダの裏切り。捕われのイエスは後ろ手に縛られる。橋掛かりからそれを窺い見るペテロ。それを取り囲む人々の眼差しが見え、ペテロの弱さは無言で顔を伏せ、手を挙げるのみ。ペテロの科白を呂太夫が語ることでその嘆きは一層深い。

第4章「イエスキリストの十字架」
初めて十字架の道行を演じる。半裸のイエスは2本の木を組み合わせた十字架を担い、引きずりながらゴルゴダへの道を歩む。その木はリアルな十字架ではなく、イエスが担わなければならなかったすべての人の罪の象徴と見えた。
勘市はその重みを、理不尽な苦しみを、ただ堪えるイエスの姿で表す。我が神我が神、なんぞ我を見捨て給いし、のクライマックスから、十字架のイエスをシルエットで見せる表現。

第5章「イエスキリストの復活」。復活のイエスと出会い怯えるペテロと、僧侶のような薄物をまとう、やや肉感的なイエス。手の真ん中に赤い傷跡。それを見て恐れと絶望は歓喜と希望に変わる。呂太夫の「ハレルヤ」の力強さ。

 

そしてマリアとイエス。今回、人形陣はわずか3名、一度に人形が1体しか舞台に出せない状況。だから基本的にマリアとイエスは同時には出ない。
しかしそれは、マリアによってイエスが生まれ、イエスは公生涯に入って後はマリアとほとんど関わらないというものあるが、マリアの使命とイエスの使命は表裏一体であり、人として能う限りの犠牲を払って他者のために生きることであり、自分の命を他者のために捧げることである。イエスの活動の裏にはマリアの沈黙の祈りがあり、マリアはイエスの生涯を先取りしている。
清十郎と勘市、清之助の3人は、この二つの運命、二つの尊い犠牲にふさわしい気高さと清さを見せた。

狂言の動きは能に比較してはるかに自由でダイナミックであり、人形よりも細やかな表現が一人の意志によって可能である。山口氏と山本氏の掛け合いはほっとさせる温かさやユーモアがあり、この物語の通奏低音のように人の善意が広がっているのを感じさせる。

一方、能楽囃子方の四拍子と文楽の太棹三味線は異質な表現力を持つ楽器であり、言ってみれば、能楽の四拍子は三味線の旋律のような「色」のない、純粋な虚空に響く音である。
笛の野口氏を始め、小鼓の上田敦史氏、大鼓の森山泰幸氏、太鼓の上田慎也氏、この4つだけでも純粋に上へと向かうような集中を作り出す力がある。
対して三味線の清友、團吾(友之助休演による)のお二人は、長年この作品を手掛け、太棹の表現力を生かした物語世界を描く。ここに二つの音の世界が並立している。内へ内へと集中しその中に垂直に降り来てわれわれの内面を一転させる音と、外へ外へと延伸し聴く人をドラマの中に包摂し人々の心を包む音。この二つの力が感覚を揺さぶる。それぞれ独自のリズムと奏法があり、双方が主張し合い、時に混沌とするが、その中から不思議な光が交錯する。

酔うというのではなく、そこにしかない音同志の主張が、時として不思議な調和を作り出す。それは、この舞台全体が異質なものの極限を掘り下げることで、その本質に近づくという奇跡を象徴している。

そして呂太夫、希太夫の語り。
狂言方の科白は本人のものだが、呂太夫は一人ではなく、その世界をわが物として、マリアもペテロもイエスも、その一人ひとりの命を生かす。この物語は、この3人の、ある意味死と再生の物語、その発端から今に至る命の物語である。その真髄が、この顔合わせにより、意図したものを超えて実現したと言えるのではないか。
これこそがクリスマスの意味である。2000年前のパレスチナの地で起こった一人の刑死が、現代まで続く人間のすべての罪を担い、癒し、ゆるし、新しい命に生かす。永遠の神が人の姿をとってこの世に生まれたという不条理。
「いま、ここで」が「いつも、どこででも」に変わり、私たちとともにいまあるという不思議。

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実は今回のゴスペル・イン・文楽×能楽に実現されている。文楽は近代劇として、「いつ」「どこで」「だれが」が特定された物語で、これはマリアとイエスの奇跡物語である。しかしその物語は同時に、現代のわれわれの中に到来し、その時にイエスが多くの人を癒したように、いまの私たちを癒している。

時と永遠が結ぼれるその奇跡を描くゴスペル・イン・文楽の試みは、文楽という芸能の枠を超えていく。そしていまも、私たちに生きる意味を問いかける。天より降りきたる言葉のように、人の言葉を超えて、それは私たちの魂を生かすのである。

掲載、カウント(2022/12/29より)