国立劇場さよなら公演  巷に静かに雨が降る―「白石噺」の世界-

森田 美芽

 『碁太平記白石噺』は、しばしば正月を飾る華やかな舞台である。しかし本来は、江戸浄瑠璃の仇討もの、それも由比正雪の乱や南朝の再興などの内容を盛り込んだ複雑な物語であり、その中に、華やかな廓と対照的な娘の田舎言葉、生き別れの姉妹の再会、父を殺された悔しさをぶつける妹、仇討を決意する姉妹の健気さ、それを押しとどめる親方の情ある詞など、いくつもの見せ場、聞かせどころがあり、単独で見ても面白い。というより、その難解な部分を避けて、「新吉原揚屋の段」を中心に上演されてきた。今回の国立劇場は、その発端となる「逆井村の段」を51年ぶりに上演することで、姉妹の詞の端々に匂わされてきた背後の人間関係が明確になり、物語の全体性を理解させるものとなった。

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第一部『碁太平記白石噺』「田植の段」中、咲寿太夫、友之助。遠く山々を望むのどかな田植えの風景、ツメ人形の百姓たちにも表情があり、生き生きとした笑いがある。咲寿太夫、その音程による人物の語り分けが丁寧になされている。マクラの歌もそれだけで風情を表す。友之助の変化に的確に合わせる技術。

、藤太夫、清友。この一家の無念な状況。与茂作の「土に喰ひついても稼ぎ溜めて」の貧困、娘を身売りさせていること、さらに騒動に巻き込まれて無念の死を遂げながら、証拠のない悲しさ。村人たちの「庄屋殿、ええかい」の繰り返しのリズムと強弱と間にも、身分ゆえの悲しさが漂う。清友の手がこのリズムを作り、無念を表す。
51年ぶりの「逆井村」の段。中、靖太夫、勝平。靖太夫は緊張しながらも、伸びやかに声を出す。婆の詞の難しいところをよく伝えている。勝平はよく性根を読み込んだ三味線。

、千歳太夫、富助。変化が多く様々な要素を求められる難しい段。しかも嘆きが多く、最後にそれを転換させねばならない。そうしたエネルギーと情熱のいる一段。千歳太夫はよく語りきった。たとえば「聞き分けよヨ、ヨイヤイヨ」のところは「忠臣蔵 身売り」の婆の嘆きのようでもあり、また「それでも早う姉を取り戻さにや」などのあせり、殺された与茂作を前にごまかす七兵衛と自分の思いで語るところは、「野崎村」の目の見えない婆のようでもある。それに対し、自分の妹に向けて嘘を言いながら「南無阿弥陀仏」と挟む、その切り替えの面白さ。
さらに谷五郎が戻ってきてからの立ち回り、台七との対決、段切れは兵部之助が正体を現し、2人が決まるところは『尼崎の段』の段切れを思わせる。こうした変化の端々に、富助の切っ先が冴える。
人形では玉志の兵部之助の怪しさと清十郎の谷五郎のさわやかさが好一対。玉也の七郎兵衛が誠実さと妹一家への情味を、簔二郎のおさよが哀れさと嘆きを好演。玉勢が台七の悪を大きく遣い、玉輝は武氏かしらの与茂作の実直と無念を示す。玉峻が休演で代わった玉路が軽快な動きで百姓七助を遣う。
第二部「寿柱立万歳」三輪太夫、團七をシンに、希太夫、薫太夫、文字栄太夫、寛太郎、燕二郎、清方らが並ぶ。国立劇場新築の寿ぎの入れ事も含め、1本から12本までの柱を4人の太夫がリレー式に語り、三味線もそれに合わせる。太夫は文哉、才蔵は簔一郎。根が真面目な人が揃い、大真面目に笑いを取る。ユニークで楽しい一幕。團七師匠にはぜひお元気で舞台に立ち続けて頂きたいと願う。
『碁太平記白石噺』浅草雷門の段。口、亘太夫、團吾。亘太夫はしっかりと発声し、どじょうや観九郎といった小悪党の面白さ、娘おのぶの愛らしさがよく聞こえる。團吾は楽しく聞かせるが、惣六の出などに重みを感じさせる。

、咲太夫、燕三。無論不足のあろうはずもないが、やや声に疲れを感じる。どじょうと観九郎のやり取りなど、もう少し笑いが起こってもいいはずのところ。また、この2人の背景も気になる。燕三もよく支えているが、白湯汲の席での咲寿太夫の真剣な眼差しが印象に残る。どじょうの勘市、切れのよい動き、キャラクターが立っている。観九郎の紋秀、表情を変えないが、抜けたところのある悪党の面白さ。惣六は後述。

切、「新吉原揚屋の段」呂太夫、清介。冒頭、華やかな色町の三味線も節も大阪とは違う。呂太夫のマクラ、「入相の鐘さへ早く」で色が変わる、時が動く。「廓のうちは万燈会」でほっと光が差し、「歌舞の菩薩の色揃へ」で、廓の女たちの世界が人びとにとって優しく魅惑的に広がる。全盛の宮城野太夫の美しさ、位、その中にある品格、色っぽさよりも、もとは武士の娘との香が漂う。一転して賑やかな、女郎たちの会話。その中で無理やり        引きたてられてくる娘おのぶのおぼつかなさ、不安。

おのぶの詞が素晴らしい。この東北訛りの特殊な詞をユーモラスに、しかもおのぶの純情が伝わるように、的確で心温まるな語り。「塗りこべえた」「色(いんろ)のよさア」「皸(あかぎれ)さあ引つかかって、うつ切れべつちや、おやつかなたまげ申す」のアクセント、もちろん意味がすぐ分からなくとも、おのぶの必死さがよくわかる。
そして「父(だだあ)」「母(があま)」「赤はらはたれ申さぬぢゃア」というキーワードの印象深さ。この言葉で宮城野が、自分の故郷の人だと納得したのがわかる。宮城野も、長く家族と生き別れ、再会の時を待っていたことが胸に迫る。だからこそ、このあと二人になって、互いを認め合う時も、一旦姉のしるしを求め、そうしてようやく再会を喜べる、そんな境涯に置かれた悲しみも。

おのぶの姉への打ち明け話、「父は犬死に」「8月18日に、悲しやつひに御死にやり申いた」の痛ましさ。その悔しさに「何の奉公どころかい」と呻くような語りに呼応して、姉宮城野の詞も、わずか12歳で身を売らなければならず、親の死に目にも会えなかった悲しみが伝わってくる。そのあとの「姉が許嫁の夫この江戸に居やしやんすとのこと」が、立体的に響いてくるのは、その前の「逆井村」があるから。

そして惣六の裁き、情に溢れ理を説く長い詞も弛緩なく、曽我物語を引いて仇討の気持ちを理解しながらも、いまはその時でないと納得させる懐深さ、ここは勘壽の人形も相まって、後半のクライマックスとなる。
「逆井村」と合わせて見ることで、これらの詞の背後にある思い、人間関係が明確になり、伝わるものがさらに立体的になる。おのぶの性根がより強く、彼女のしっかりとした姿勢、親から引き受けたものの重さ、宮城野の格の意味するものが伝わる。呂太夫の語りはしっかりとその物語の全体性を踏まえた奥深さをより強く感じさせるものとなった。ただ、これでも物語全体ではないため、全通しに近い形での復活は望めないだろうか。

段切れにまた三味線の独奏が、物語を華やかに締めくくる。宮城野の和生は手慣れたものだが、やはり遊女といってもその品格が伝わる。おのぶの一輔、愛らしく可憐な中に、父母を殺されて仇討に向かう強い気持ちがしっかりと出る。
客席を見て、東京公演にも拘らず空席が多いことに、まだコロナの影響が大きいことを切実に感じる。9月の雨が続き、晴れやらぬ空に思いも沈む。来年、国立劇場は改修のため長い休館となり、その間の公演のことはまだ詳細はわからない。懸念されるのは、やはり文楽専用の劇場でなければ、できない演目や役場があるのではないかということ。
7年後の再開時に文楽はどうなっているだろう。拠点のない状態で、腰の据わった修行ができるのだろうか。いま、一人ひとりが力の限り舞台に向かっているのは言うまでもない。だがそれだけではない。この20年ほどに上演が絶えている演目、通しの復活、適切な配役による芸の継承、それらの課題を一つ一つクリアしていかねばならない。その見通しはまだ明らかではない。
ただ、雲の彼方の青空のように、確かに見失ってはならないものを、私たちは見つめ、それを手放さないこと。彼らの舞台を見る、それは暗鬱な世にも、希望があると信じたいから。

掲載、カウント(2022/9/19より)