もう一人の「辻」―2022年夏公演―

森田 美芽

呂太夫、清介の『花上野誉碑』「志度寺の段」を見て、また、眩暈のする感覚に襲われた。三味線が低く、その旋律を繰り返している。太夫は、「南無象頭山金毘羅大権現」「南無金毘羅大権現」と繰り返す。
その狂気のような激しさで全身全霊を込めて祈るのは、清十郎の乳母お辻。馬鹿げている、これは仮病で、伯父の指示で口のきけないふりをしているだけなのに、と、心のどこかで冷笑していたはずが、あまりの迫力に、お辻の哀れさ、執念、狂気じみた激しさに、それを忘れ、夢中で見つめ、思わず拍手してしまう。
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文楽の、いわゆる切場というのは、現代のわれわれから見れば不自然なことも多い。だがそれにも拘らず、というより、理不尽で不自然なことだからこそ、現実を超えたリアリティを直接的に感覚に知らしめ、納得させるものがある。この「志度寺」においてもそれを感じ、同じ名を持つヒロインで、前に呂太夫・清介コンビで上演された『摂州合邦辻』の「合邦住家の段」における玉手御前(本名はお辻)をふと思い出した。

両者はともに忠義のために命を懸ける烈女であり、周囲の制止も聞かず暴挙に及ぶ。そして刃に刺されて死ぬ。しかし玉手御前はあくまで自分が書いたシナリオのための暴挙であり、その目的は夫高安左衛門尉通俊への忠義のために継子の俊徳丸の命を助けることであり、激しければ激しいほど、その奥にどうしても自分を刃で刺させなければならない理由とそのための計算がある。
それに対し乳母のお辻は、盲目的な母性愛と、そのために自分を金毘羅大権現への犠牲とする。彼女自身はあくまで坊太郎の病気の本復を願うためであり、薬も祈祷も効かず、最後の手段として金毘羅大権現に祈誓をかけ、そのために胸に刃を突き立て、水垢離を取りながら必死の祈りを捧げるのだ。だからこそ内記が真実を告げた時、お辻は「艱難辛苦も水の泡」と絶望する。その絶望の深さが痛々しくも哀れである。

無駄死にというなら、これほどの無駄死にはないとさえ思える。思えば、出の時から、彼女は断食のためやつれ果て、しかも底に自害の覚悟を定めていたことになる。主君の、またその子の敵討ちのためなら、何という痛ましい犠牲であることか。
彼女が最期に見る金毘羅大権現の降臨も、彼女の一念が引き寄せた幻影ではないかとさえ思える。それほどこの物語は、お辻の一念のみがそのリアリティを与えている。そして、その絶望からの遥かな希望への転換を生み出したのが、この彼女の一念なのだ。そのことを納得させられるか否かがこの芝居の成否を分ける。そしてそれを可能にしたのが、演者の力である。

の希太夫、人物を的確に語り分け、その性根を示す。「昔の姿いつしかに」の節の綺麗さ、民谷源八の死の無念、「志度の浦風に、磯浪寄せる如くなり」も、切場へのよき備え。清友の丁寧な導きで全く不安なく聞ける。

、藤太夫、藤蔵。「泣く泣く立つて行く」のマクラからの菅の谷の思い、「そなたのその親切が、届かいで何とせう」が響く。その後の森口源太左衛門の悪人ぶりがよい。坊太郎に向かって「業晒しめ」と罵詈雑言、だがどれほど高慢であっても、所詮田舎武士の性根が分かる。藤蔵も力を籠め、方丈の貫禄、菅の谷の気品、団右衛門の軽薄さなど、スケールの大きい描き方である。

、呂太夫、清介。前半の、お辻の坊太郎への思いを込めた語り掛け、「いかに頑是がないとても」と嘆きつつ、父の無念、侍の子たる誇り、何としても敵討ちさせたい、なればこそこの不始末は、との思いがあふれ出る。
だからこそ、桃を盗んだ言い訳を見て「よう盗んでくださった」と矛盾したような、しかしそう言わずにはいられない思いが伝わる。ふっと笑いが入る。一転してかの水垢離の場面も、この思いが一念としてあればこそ、というのが伝わる。清介は、「合邦」の時と似て、ここも三味線の独壇場ともいえる場面が続く。清介の、弛緩なくクライマックスに持っていく、またその強さを維持する集中。

呂太夫の語りは、この集中を生み出している。見る者をも引き込み、異なる次元の論理を否応なしに納得させる、不思議な強さ。息を詰める、太夫は語っているが、その語り自体に呼吸と意識と声が一つの方向に向かって揺るぎない世界を作り出すその集中。そして切場語りとして、この二つの「お辻」の狂気の中の真実と救いを描き出す力を強く感じさせられた。

そしてお辻の人形を初役で遣う清十郎も、武家の誇り、親の縁の薄い子への母性溢れる優しさ、それだけでない、狂気に至るその一念を見事に遣った。
その目に見えた金毘羅大権現が彼女の真実であろう。坊太郎の後の敵討ちの成功に、彼女は直接関わってはいない。なのに彼女がそれを実現させたように思える。狂気の中の真実、絶望の中の希望。不思議な弁証法がここに成り立つ。
この三業一体の「集中」の生み出した時空の奇跡。それにしても、清十郎の「戦う女」の強さの表現はどうだろう。『ひらかな盛衰記』のお筆以来、「気品」「清らかさ」だけではない女の強さがさらなる深みを増し、この人の表現がさらに広がっていることを、長年見ている身にも本当に喜ばしく思われる。

人形では、森口源太左衛門を玉志と玉助が交代で遣い、悪の力を見せる。槌谷内記を簑二郎。形は美しくすっきりと遣うが、この訳は源太左衛門に対抗する大きさと肚をもっと感じさせてよい。菅の谷は勘弥休演で紋秀が代わったが、なかなかの好演。うち萎れた風情にも奥方の品格がある。坊太郎は簑太郎が遣い、後半の成長をきっちりと見せる。

打ち出しに『紅葉狩』。コラボ企画で小烏丸の人形が小狐丸と並んでロビーに展示され、歌舞伎でも同じ演目で比較できるようになっている。床は呂勢太夫、芳穂太夫、南都太夫、聖太夫、薫太夫。三味線、錦糸、清馗、錦吾、燕二郎、清允と、華やかで陶然たる旋律の妙。何も考えずに没入できる喜び。

更科姫を一輔、左を簑紫郎、足を簑悠。前のしとやかな深層の姫君から、後半の悪鬼への変化が見事。初めてこれを見た1999年11月、主遣いは故一暢、左は清之助時代の清十郎、一輔は懸命に足を遣っていた。次に2006年11月には、主遣いは清十郎、一輔は左遣いであった。今回、その一輔が主遣いとして更科姫を遣うのを見るのは感慨深い。世代を繋ぐ人形の伝承の有様を見ることができた。

平惟茂は、前半玉助、後半玉志。玉助は華やかで見栄えがし、玉志は武人たる風格を見せる。山神は玉勢。動きは悪くないが、後半の足拍子が少しずれ気味なのが気になった。
腰元は紋吉、勘次郎。明るく楽しいが、もう少し両者の首の性根をはっきり出してもよいのかもしれない。
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第二部『心中天網島』。文楽劇場の本公演でこれを見るのは、もう6度目になる。1997年7月、2000年11月、2006年11月、2009年11月、2013年11月、2015年4月、2019年11月。しかもそのほとんどが、「河庄」は住大夫、「大和屋」は咲太夫と、極めつけの芸を見、また聞いてきた。今回、咲太夫を除き一気に太夫が若返り、その真価を問われることになった。

「北新地河庄の段」中、睦太夫、勝平。前、呂勢太夫、清治。後、織太夫、清志郎。確かにそれは「世界」が違うとしか言いようがない。
住太夫の「河庄」は、冒頭から運命の重さを、その地名に込められた世界の意味を、胸に刻みつけていた。300年前の大坂の商家で、その幾重にもなる義理と親子の絆の縛めの中で生きるということが、どんな意味を持つのか、治平衛の愚かさと見える行為も、小春の死への思いも、孫右衛門の義理も、全てが必然であると聞こえる語りで、誰も真似のしようもない、住大夫独特の世界だった。それが強烈すぎて、まだ客観的な評価ができないのはわかっている。だから、感じたことだけを記しておきたい。

義太夫節としては、睦太夫も呂勢太夫も織太夫もそれぞれ正攻法の浄瑠璃であり、音程や語り分けもしっかりと基本を守っている。
睦太夫は当初声を痛めていたようだが、後半改善された。マクラの詩情の一言一言を丁寧に語り、浄瑠璃の骨格を作り出す。ただ、高音部の発音が不安定に聞こえる時があった。正確に、ということを心がけているのは分かるが、まだ余裕がない感じ。「御堂様の太鼓」「茶屋の段梯子」「紙屑屋のおんごく」が響いてくるような大坂の町の広がりが感じられるよう、これからも精進してほしい。勝平はこれらの変化に忠実に伴う。

清治の三味線の響き。色町の翳りよりも、これから二人が踏み迷う道の暗さと小春の純情を糸に載せて、呂勢太夫が語りだす。
「小春に深く大幣の、腐り合ふたる御注連縄」のやるせなさ、「魂抜けてとぼとぼうかうか」のリアリティ、「覗く格子の奥の間に」のはっとするような間。孫右衛門が小春に「心中する心と見た」と言い切る鋭さに、小春が真実を語りだす(と思わせる)説得力。小春の「その恥を捨てても死にともない」に小春の二重の翳り。

そしての織太夫、太平衛、善六のくだりはさすが。
だが、詞が速すぎてついていけない。治平衛の愚かさ、あるいは恋の盲目状態は見事だが、孫右衛門の落ち着き、弟のみまらず一門を配慮する重みにはまだ。あるいは「擲かれうが蹴られうが、そこをぢっと辛抱せずば、この条の客への義理が立つまい、立つまいがの、小春殿」の叫びが、遠く壁となって小春の前に立ちはだかるような悲しみ。清志郎、華やかで、いたわしい、その手の二重性。

「天満紙屋内の段」
、咲寿太夫、後半小住太夫、寛太郎。咲寿太夫は「天神橋」のリズムが心地よく、商家の日常、人々の動き、人物が生きている。小住太夫は泰然とした風情が聞こえる。寛太郎の手の人の思いに沿う優しさ。

、錣太夫、宗助。おさんの強さと健気さが生きる語り。長いおさんの詞に、その決意と誇りを滲ませ、憂いと情に満ちたおさんの造形が見事。対比しての治平衛の前半の情けなさもうまいが、夫婦仲が強まった後の五左衛門の詞が耳を離れない。段切れのおさんの「桑山飲ませてくだされ」の哀切も。宗助の「着物づくし」の美しさ、哀しさ。

「大和屋の段」咲太夫、燕三。この段は謎が多い。なぜ身請けがすんだはずの小春が、太和屋で治兵衛と会えるのか、それも二人が死ぬであろうことが想像できるであろうに。しかしその風情は美しい。咲太夫の調子はやや低いが、それでもこの段の構造は誰よりも理解している。
人が変わったようにきっぱりとした治平衛の詞、兄の不安と子の姿にも、もはや引き止める力がないのが分かる。その森々たる夜の深さと、真夏なのに感じる寒さを描く燕三の糸。

「道行名残の橋づくし」三輪太夫、睦太夫、津國太夫、咲寿太夫、文字栄太夫、團七、團吾、清丈、清公、清方。

三輪太夫の小春、なおもおさんへの義理を立てようとする健気さ。誰のためにもならないのに、死を選ばざるを得ない苦しみ。死は救いであろうか。そうした近松の眼差しさえも感じられる。團七の優しさと團吾の緊張感の対比。

人形ではまず、勘十郎の小春。目に見える華やかさや器用さを押さえ、小春の内面を描こうとする姿勢。「河庄」での内面の深さに性根を置く遣い方が目を引く。玉男の治平衛、こちらも色気よりも、幼ささえ感じる一途さ。
それに対し玉也の孫右衛門の大人の男としての貫禄と思いやりの厚み、和生のおさんは誇り高い商家の女あるじだが、治平衛のために着物を出して数えていく時、唯一の装身具と言える簪を抜いてその荷物に入れる時の哀しげな風情が愛おしい。
五左衛門は勘壽。いつもは婆に回るこの人が「にべもない昔人」の頑固さと計算高さを見せる。太兵衛は文司、このあたりの憎まれ役も的確。善六は簑一郎、軽薄さと調子の良さ。玉誉の下女子、おっとりしたところと、こましゃくれたところと。

 

コロナの影響で、舞台の充実に比してまだ客足は乏しいが、徐々に戻りつつある。そして劇場で舞台を楽しむ余裕というか、雰囲気の温かさが戻ってきたように思う。
まだ飲食ができないことや歓談を慎むなど、以前のような娯楽としての雰囲気はまだ戻りきらないものの、多くの方がコロナの中でも、節度を保ちつつ舞台を共に楽しむ日々を思い出しておられることの尊さ。再び劇場が閉鎖される日々があってはならないと思う。そのための工夫と戦いは続くけれど、ひとたび幕が上がれば、すべてを忘れて没入できる舞台が保たれていることの尊さ。そして再び、通しで『千本桜』や『忠臣蔵』の世界を堪能できる日の来たらんことを祈念しつつ。

掲載、カウント(2022/8/16より)