予習&稽古から解放された喜び

素浄瑠璃「袖萩祭文」終えました。当日は緊張しまくりでしたが、お客さまのいない空間での毎日毎日丸一段の予習&稽古から解放された喜び、あとは今日語るだけや!で乗り切りました。大隈講堂のお客さまの雰囲気、音の響き、サイコーでした。ありがとうございました。

「袖萩祭文」井上達夫先生から感想

昨日、無事、「袖萩祭文」語りおえました。井上達夫先生(法哲学)から感想をいただきました。
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袖萩祭文、あらかじめネットで床本をダウンロードし、それまでの話の展開も予習しておりました。
事前の印象では、前九年の役の頃の奥州独立国家建設をめぐる政治的抗争に巻き込まれて犠牲になる女、袖萩を描いた半二のこの作品は、女性を男の政治的野心に振り回されてみじめな死に追いやられる存在として、あまりに受動的に捉えすぎていると感じていました。
昨年末に聴かせていただいた「合邦」の玉手御前が凄まじいばかりに女性の能動性を示していただけに、袖萩祭文は作品として「食い足りない」という印象をもっており、師匠がこれをどう謡われるのか、不安と期待をもって幕が上がるのを待ちました。
しかし、冒頭、清介師匠の「重く、遅く、悲しいアンダンテ」の三味線の音で、雪の中、盲目の乞食祭文歌いに身をやつし娘に手を引かれてそろそろと歩く袖萩の姿がまざまざと浮かび上がりました。
そして、呂太夫師匠の第一声、「立って入りにける」が長く、長く、引き延ばされるのを聴いて、戦慄が走りました。
「立って入りにける」の「入り」の「い」の音だけでも、ほぼ一分くらい、これを揺さぶるような抑揚をつけて引き延ばされましたね。
窮地に立たされた父の安否を知りたい、しかし親を裏切り零落したこの身をいまさら親にさらすことなどできようか、親も対面を許しはしまいに、と悩みながらも、親への思いに突き動かされて雪の中を歩く袖萩の心の葛藤が、この長く、長く揺れる「い」
の響きの中に脈動していました。
あとはもう、作品の筋立てへの不満などは忘れ、「半二の世界」というより「呂太夫・清介の世界」に完全に飲み込まれてしまいました。
特に、孫のお君が、傔杖と浜友を「祖父様・祖母様」と呼びたいのを子供ながらにこらえて、あえて「申し旦那様奥様」と呼びかけたのに対し、浜友が答えた次の言葉は、孫を二人もつ身の私の心につきささりました。
「アア、可愛や可愛やな、子心にさえ身を恥ぢて祖父様ともばば様とも得云わぬようにしをったは皆おのれが淫放ゆえ……生まれ落ちると乞食さす子を、アレあのようにおとなしう産み付けざまはなにごとぞ、あんまり憎うて、おりゃものが云われぬ、ものが云
われぬ」
浜友は、自分の娘、袖萩の「淫放」を犬畜生のごとしと罵りながらも、逆境の中に生まれたにも拘らず子供ながらに健気に礼節を示す孫を見て、袖萩を「よくぞこんな良き孫を育ててくれた」と、ここで見直し、孫への愛と娘への愛を同時に心中に昂ぶらせ
ています。
しかし、その心中を吐露して娘を許したと見られることは武士の妻としては許されず、
「あんまり憎うて」という反語をぶつけています。
呂太夫師匠は、この「あんまり憎うて」を語るとき、「あんまり」の「あ」を「ア~、ア~、ア~」と長い、長い嘆息のようにリフレインされましたね。
武家の掟により示すことが許されない孫と娘への高まる愛、それをこらえようとしてこらえきれない浜友の心中の葛藤が、そこに凝縮され、不覚にも、私はここで落涙してしまいました。
因みに、御高著『六代呂太夫--五感のかなたへ』で共著者の片山剛氏が紹介したところによると、谷崎潤一郎は「合邦」を「猥雑で不自然で晦渋な筋」、「いわゆる痴呆の芸術の典型」と酷評したようです。
その彼が一方で「有り得べからざることを迫真の妙をもって語り、聴き手をしてその不合理を一時全く忘れさせてしまふところに義太夫の面白みがある」とも言っているとのこと。
「合邦」に対する谷崎の酷評はいただけません。
「痴呆の芸術」と言うなら、谷崎の『瘋癲老人日記』こそ、それでしょう。
こう言うのは谷崎作品をけなす意味ではなく、「痴呆の芸術」を賞賛する意味においてです。
それはともかく、あり得ない筋の話に迫真のリアリティを与えるところに偉大な義太夫の芸術の真髄があるという谷崎の主張はその通りだと思います。
袖萩祭文、さらには奥州安達原という近松半二の作品は筋立てに強引さ、不自然さがあるというのは否めないと思います。
たとえば、環の宮誘拐事件の証拠になる文書と、袖萩が見せた夫、安倍貞任の文とを父たる平傔杖が照合して、貞任こそ誘拐事件の犯人だということが証明されたわけですから、傔杖はもはや責任をとって切腹する理由はなくなったのに、あえて切腹します

その理由は、パンフレットの解説では「平家でありながら源氏に縁組した誤りを悟って白梅を自らの血で平家の赤に染め直し」とありますが、これは「こじつけ」の感が否めません。
しかし、半二の戯曲作品に無理があろうと、それに迫真の人間的リアリティを与え、私のような聴く者をして作中人物に自己を重ねて落涙させてしまうところに、呂太夫師匠の語りのすごさがあると感じました。
私はこれを「声の説得力」と呼びたいですね。
字で書かれた戯曲作品にはない説得力を、語りによって現出させる「声の芸術」こそ義太夫である。
昨日の公演で、そんな思いを強くしました。
その意味では、人形の表現に頼らない素浄瑠璃こそ、義太夫の真髄だと言えるのかもしれません。

「今橋」の中華そば

大腸検診の予約がてらの診療に行きました。近くにある「生そば 今橋」の中華そば定食。780円。これがうまいなんてもんやおまへん。アッサリ平凡な中華そば。チョコっとある焼豚も。恥ずかしいからおつゆは全部は飲まない。御堂筋の二筋東。高麗橋通りと今橋通りの間の筋です。卵かけご飯もまた有意義であります。北浜、淀屋橋近辺に行く時は必ず立ち寄ります。
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大隈講堂「袖萩祭文」

6/24素浄瑠璃IN大隈講堂「袖萩祭文」。環宮(たまきのみや)を誘拐された責任をとらされる父傔仗(けんじょう)と、その父を殺せと命ぜられた娘袖萩(そではぎ)が雪の降りしきる中、同時に自死するというシチュエーションをまず理解してくださいね。調べたら出てきますから。チケット、あと一枚残ってます。