「合邦」井上達夫先生より感想

12/4大槻能楽堂、12/17紀尾井小ホールで、素浄瑠璃「合邦」を語りました。お忙しい中、おいでくださり感謝します。
法哲学の井上達夫先生より感想をいただきましたので、ご本人の許可を得て公開させていただきます!
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「合邦 庵室の段」の通し素浄瑠璃、堪能させていただきました。
昨年の「すしや」にも強く感動いたしましたが、それ以上に緊迫した「くどき」の場面が多い本作の公演、圧倒されました。
冒頭の「しんたる夜の道、恋の道には暗からねども」の語りだし、いつもの師匠より声が細められており、一瞬「おや」と思いましたが、しんしんとした夜の静けさ、頬かむりして実家を訪ねる玉手御前の世を忍ぶ姿を伝えるとともに、後で何度も押し寄せる昂揚の場面のために、エネルギーをためておられるのだろうと思いました。
鼎談では最初は声がよく出なかったと説明されましたが、この作品についてはこういう語りだしもありではないかという印象をもっております。
その後だんだんと声に勢いがつき、いくつもの「くどき」の場面で、まるで演じられる人物の霊が乗り移ったかのような熱演となり、自分だけでなく満席の観客がみなその世界に惹き込まれ(というより飲み込まれ)てゆくのが感じられました。
「大阪よりおとなしい東京の観客」から何度も拍手が起こったのは、むべなるかなです。
いくつもの「くどき」の中で、私が一番感動したのは、合邦が、嫉妬の乱行におよんだ自分の娘、玉手御前を突き刺した時の語りです。
「……このやうな念の入った大悪人を、まだおのりゃ子じゃと思ふかい、おりゃもう憎うて……」と言いつつ、合邦はこう続けます。
「……十年このかた、蚤一匹殺さぬ手で現在の子を殺すも、とっともう浮世の義理とは云ひながら、これが坊主のあらう事かい、これが坊主のあらう事かい、これが坊主の……」
極まる怒りとあふれかえる悲しみがぶつかり合うこの合邦のリフレイン、これを合邦その人がいままさにそこで叫んでいるかのごとく師匠が絶唱されるのを聴いて、私は嗚咽しそうになりました。
周りの人たちが拍手するなかで、私は拍手できませんでした。
嗚咽するのを抑えるために、両手で自分の胸を抱えていたのです。
娘の悪行の真意が身を犠牲にして俊徳丸と次郎丸双方を助けることにあったと知った後の合邦の嘆きも感動的でした。
しかし、玉手御前を大悪人と信じ、怒り心頭に発して成敗の刃を突き立てながら、我が娘を手にかけざるを得ない父親としての悲嘆、その根底にある娘への捨てきれない愛を、僧侶の不殺生義務という理屈に隠しながら吐露するこの場面の合邦の語りは、ギリシャ悲劇にも勝る人間的葛藤の究極の表現です。
公演後の鼎談で、玉手御前が純粋に利他的な自己犠牲をしただけなのか、俊徳丸への許されざる恋情もあったのか、という古典的問題について、師匠は、司会の児玉さんがクリスチャンとしての解答と形容された「純粋利他説」を説かれました。
今井さんたちとの5人の公演後の会食で、このことが話題になりましたが、この点ではみな、師匠とは異なり「恋情説」でした。
私も基本は「恋情説」です。
スタンダールの『恋愛論』の中に、たしか「プロヴァンスの恋の物語」という表題だったと思うのですが、次のような挿話があります。
奥方が小姓に恋をしているのを知った領主が、小姓を狩猟に連れ出して殺します。
狩猟から帰った後、今日の獲物の心臓の料理と称するものを奥方に食べさせます。
奥方が食べ終わった後で、領主はいまのはお前が愛した小姓の心臓だと知らせます。
奥方は動じることなく、「美味しゅうございました」と一言つぶやいて、バルコニーに行き、身を投げて死にます。
きわめて残酷な話ですが、私はここに恋愛というものの、唯一ではありませんが、一つの究極の姿を見ます。
プロヴァンスの奥方は愛する者の生命の象徴を己の内部に吸収することで、もはや離れることのない完全な一体となり、至福の内に死にました。
玉手御前の場合は、自分の肝臓の生き血を俊徳丸に吸わせて彼を本復させることで、俊徳丸の身体の一部となりました。
彼女は個体としては死にましたが、俊徳丸の身体の中に吸収され、彼自身の一部として転生し、もはや誰も二人を切り離すことのできない完全な一体化を成就する……
少なくとも玉手御前はそのように信じていたのではないかと私には思えてなりません。
師匠の利他的自己犠牲説と、小生のような「合体恋情説」は矛盾しないと思います。
玉手御前においては、究極の自己犠牲が、究極の恋の成就でもあったのです。
師匠がクリスチャンであることを児玉さんが言うまで忘れておりましたが、私のような見方はキリスト教とも矛盾しないと考えております。
カトリックの儀式に「聖体拝領communio)」があります。
パンがキリストの「肉」であり、赤ワインがキリストの「血」です。
これは単なる象徴的記号ではなく、儀式の決定的瞬間において、パンがキリストの肉と化し、赤ワインがその「血」と化すというのが少なくとも古くは正統解釈だったと聞いています。
キリストの肉を食べ、血を吸う事によって、信者は人間を救済するために「生贄の羊」となったキリストの自己犠牲に思いを致すだけでなく、キリストへの、ひいては神への「愛」を心身合一という形においても成就する。
いまのカトリック教会が何というか、プロテスタントがどういうか、私は知りませんが、神への純粋な愛においても、究極の利他的自己犠牲の礼賛と、神的存在との完全な合一を求める「聖なるエロス」とが結合されており、玉手御前の究極の恋と一脈通じるものがあるように思います。
「恋の狂気」は自己も他者も破滅させる醜い罪性を持つことが通例ですが、ときにそれは、「宗教的光悦」の次元にも昇華し、他者を救済すると同時に、愛する他者との一体化への自己の深い欲求の成就ともなると思います。
真面目なクリスチャンからは叱られそうですが、師匠が演じられた玉手御前の姿から、師匠の解釈とは異なる人間の愛の形を読み取らせていただきました。
精力的に活動再開されている御姿、何よりですが、無理して体調を崩されたりしませんよう、どうぞご自愛くださいませ。
乱文ながら、御礼にかえて。