再びの「すしや」、さらなる高みへ

森田 美芽

2020年12月17日、東京、紀尾井小ホールにおける素浄瑠璃公演「豊竹呂太夫『すしや』に挑む」を聞く。
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冒頭に、児玉竜一早稲田大学教授の短い挨拶。いがみの権太は関西では普通名詞であること、最大の山場は権太のモドリ、維盛の運命、そして「師匠は権太を捕まえに来る」と、わずか5分で今日の見どころと主題、これに賭ける二人の演者の姿勢まで伝えてくださる。

遠目にはグレーの肩衣、青磁色の袴の清やかさ、祖父譲りの見台。
「春は来ねども花咲かす、娘が漬けた鮓ならば、なれがよかろと買ひに来る 風味も吉野」、文字で読めば数秒、そこに付けられた節の複雑さ。産み字の語尾の節、イキと間、これらは口伝通りと言う。その口伝の確かさと重さ。いつの間にか、目の前に吉野下市の賑わい、年頃の娘と母の微笑ましい掛け合いが浮かんでくる。

権太の出。ふと気づく。「門口より乙声で 『母者人』」が、思ったほど強くない。以前はかなり低く、力を込めているのがわかったが、いまはそれほど力を込めなくても、自然体で、それこそ権太のたくらみや眼差しや足取りまで見えるように思える。
「竈の下の灰(はーい)まで」の一言にその性根を見せる。そして母の「聞きやこの村へ来て居るげなが、互ひに知らねばすれ合うても、嫁姑の明き盲目」というキーワードがさらりとはめ込まれる。

そして権太の母を騙す語り口の絶妙なこと。嘆きながら「目をしばたたあああき」の間合い、また「大盗人にあーーひました」という真に迫った語り口、「しゃくりイイイ、イイイ上げても出ぬ涙」で客席に笑いが自然と起こる。「どうで死なねばなーりますまい」で母親の心が動くのを見せて、ついに母親に金を出させるのに成功する。その母親の甘さ、婆のかしらの人のよさがそのまま表れている。

弥左衛門が帰り、弥助と名付けている維盛に、上市に逃げるように迫る。ここで弥左衛門が維盛の父重盛に昔恩を受けたことを告白する。原作では弥左衛門は盗賊、重盛が唐の硫黄山に送る祠堂金を奪った罪を許されたことになっているが、改作では金を盗まれた被害者になっている。ここでは改作版。

お里の誘いを退け、そこに若葉の内侍の登場。「神ならず仏ならねばそれぞとも知らぬ道をば往き迷ふ」に驚く。そこで景色が変わる。
険しい道、慣れない長旅、北嵯峨の庵からここまでの彼女の道のりの厳しさ、疲れ果てた彼女の絶望的な状況が偲ばれる。一方、維盛はお里と馴染みながらも妻への義理を立てる。その二人が奇跡的に出会う。二人の戸惑いが、あまりに意外でとっさにわからないことに表れる。それと知っての「ナウなーつーかしや」が痛く沁みる。
そして小金吾の死を嘆く哀切と、「若い女中の寝入り端」以下の感情の激するところの対比、維盛の「親どもへ義理にこれまで契りし」がいとも淡々と、突き放したように聞こえる。なればこそ、次の、お里のさわりとの対比が生きる。

前半は詞の区切りを明確に、お里の、維盛一家への遠慮を感じさせながら、「可愛らしい、いとしらしい」には切ない恋心をにじませ、「雲井に近き御方へ」はまた産み字で、「鮓屋の娘が惚れらうか」が、彼女の思いの深さとこの不条理の酷さが強く響く。
「情けないお情けに預かりました」は少し早く、むしろあっさりと語る。それがむしろ、娘の哀れさを一層伝える。

ここからの場面の変化が際立っている。落ち延びていく維盛内侍、「ご運のほどを危うけれ」に三味線のタタキ、権太は金の入った鮓桶を抱えて追って行き、お里が焦って「ソレソレソレソレたつた今」のリズムが心地よい。その急に対する梶原の出の威厳、弥左衛門一家の七転八倒との対比。婆と弥左衛門の桶の取り合いで少し和ませ、そしてついに権太が維盛の首と妻子を捉えての出。
権太と梶原の問答は、梶原の「あつぱれの働き」「スリヤ親の命は櫓られても、褒美が欲しいか」の詞で、悪の勝利を明白にわからせる。「私にはとかくお銀」は、さらりと語られるのに、そこに権太の性根よりも、ここに賭けた権太の複雑な思いが滲む。
おそらく人形のある本公演なら、この「縄付き引つ立て立ち帰る」でその性根を見せるのだろうが、消え入るようなその語尾に、権太の苦しさが見える、そして弥左衛門が刃を突き立て、血を吐く叫び。

弥左衛門の口惜しさ、息子への怒りと息子ゆえの悲しさ、「弥左衛門歯噛みをなし」からの詞の強さとタタキ、その怒りと悲しみが深いほど、「胸が裂くるわい」が堪える。そして権太のモドリ。苦しみをこらえての詞、一文笛。自分の妻子を身代わりにと、「縛り縄、かけてもかけても手が外れ」から「チチ血を吐きました」の叫びは舞台と客席を一つにする。
それを聞いた弥左衛門の嘆き。さらに、逢うことのできなかった孫と嫁が失われたことの痛み。家族でありながら、顔すらも知れない嫁と孫、それを同時に差し出した息子の本心。それを知れなかった自分、弥左衛門の「ヤレ聞こえぬぞよ権太郎」にこもる力が、この一家の悲劇の深さを表す。

それに引き換え、あまりに達観した様子の維盛、ところがこの述懐、「逢うて別れ逢はで死するも皆因縁」のくだりが、実にリズミカルに語られ、この「千本桜」全体の主題と重なる。かと言って悟りしましたのでない。頼朝の陣羽織を「ずだずだに引き裂いても」をつぶ読みするのに応えて衣を裂こうとして気づく、そこに父の恩報じと知り、どこまでも父の蔭を逃れることのできない運命を悟る、この維盛の複雑さに心が至ったのは私には初めてであった。
しかし、その直後の、権太の嘆き。「思へばこれまで衒つたも後は命を衒らるる種と知らざる浅ましイイイイイ」その絶望は計り知れない。すべては父のため、父の忠義のためと妻子を犠牲にしたのに、それすらも全く無意味であったと。これを描いた、作者の残酷なまでのリアリティが、その無念から伝わってくる。

ここからは段切れへ向けての急速な展開。父は息子の臨終にも立ち会わず内侍を伴い出で立とうとする。そこまで深く傷つけられた親子の、最期の別れ。華やかな旋律に載せて、この悲劇の幕を閉じる。

なんとよく出来た浄瑠璃だろう。この権太を創造した作者の巧みさというより、源平の争いの蔭に犠牲になった庶民を代表させる、この悲劇的造形をなんと言えばいいのだろう。
そして浄瑠璃としての完成度の高さ。登場人物一人一人の性根と役割がこれほど個性的に立てられていて、しかもずっと聞いていると、一人一人の中にある悲劇の伏線からその成就までが一つの線のように導かれ、この場においてそれらが交錯し、悲劇としての必然を作り出している。それらが耳を通し伝わってくる。

そして呂太夫にとっては、二十数年ぶりの素浄瑠璃での「すしや」一段。
実はその時、やはり劇的構成と権太の性根に感じ入ったが、今回さらに、何気ない詞の運び、細かい節付け、三味線とのバランス、それらを含めての円熟を感じた。
いたずらに力を籠めずとも、自然に語りながら、何とも言えない感触と余韻を残していく。複雑な人物構成なのに、語りの中で生きた感情がぶれずに交錯する。その語りの全体が、三味線と共にドラマの構成を見事に再現して、聴く者一人一人の感性や感情とぶつかり合い、心を揺さぶる。

これが、呂太夫が長らく目指してきた芸の真骨頂の一つの成果であろう。25年間、彼の語りを聞いて、義太夫節とはこれほど奥深く、人を感動させるものかと、改めて思わされる夜であった。

掲載、カウント2021/1/5より)