小狐丸の怪、小鍛冶の畏れ

森田美芽

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 そこは、異空間だった。
 多くの人が、初めて足を踏み入れた空間。しかも照明を落とし、和蠟燭の揺らめく光のみ。その暗さの中で、語り、舞う人々に、微動だにせず心が引き寄せられているのがわかる。
 2019年5月31日、大槻能楽堂自主公演能は「小狐丸―伝説の刀剣 誕生の瞬間」と題した画期的な企画であった。
 ナビゲーターの桂吉坊氏が、「能楽堂は初めての方?」と尋ねると、およそ3分の一は手が上がったのではないか。特別ゲストの近藤隆氏は無論、「刀剣乱舞」すら知らない筆者にとっては、驚きとしか言いようがなかった。そして近藤氏が、その由来となった「小鍛冶」の一節を現代語で朗読されるその姿勢の真摯さ、固唾を飲んで聞き入る聴衆。そして「小鍛冶」の別演出の解説のために、大槻文蔵師が拍子をとられて地謡2名で、赤頭と白頭の差を演じて見せる。神格としての稲荷明神をいかに表現するかというこの舞台の主題を、妥協なく、実に分かりやすく簡潔に見せるその手法と解説にまた感心させられた。
 蠟燭に火が灯され、舞台中央に所作台と緋毛氈が備えられ、三挺三枚。呂太夫、希太夫、亘太夫が並び、三味線は清友、友之助、燕二郎。
 その声は、確かに客席に向かっている。だが、いつもと違う。声が、舞台の背後から響いてくるような感覚がある。あたかも、稲荷山の闇から明神が降りてくるように。三味線もまた、その強さが増幅され、隅々まで届き、広がる。いつも文楽劇場で語るのとは違う、彼らにとってもここは異空間なのだ。人形を活かすための彼らの語りと三味線は、もっとそれ自体の持つ純粋な力と、何か貫くものをもって広がり、耳を通してでなく、全身に浴びせられる。その感覚に打たれる。三味線の手には「千本桜」の狐に使われる手が多く出てくる。なじんだ声と音。にもかかわらず、迫ってくるものが明らかに違う。
 後半、能「小鍛冶」は黒頭別習の小書がつく。観世喜正氏による前シテは童子で稲穂を手に持ち稲荷明神を象徴し、後シテは輪冠なしの黒頭。小走りに足を細かく動かす狐の歩み。その異界性。この世ならぬものが、揚幕の向こうから歩み寄り、舞台を横切り、相槌を打つ。その前のワキ三条小鍛冶宗近の福王知登氏の誠実さ、勅使橘道成の喜多雅人氏の動かざる品位に対し、明らかにこの世ならぬものが降臨する舞台となる。激しく刻まれる鼓、太鼓。切り裂く笛。まるで一人の声のような地謡。そして舞台を背後からまとめる、後見の座に大槻文蔵師、斎藤信隆氏、赤松禎友氏の、翁のごとき眼差し。
 蝋燭の灯だけでは、面をそれと判別することも難しい。そして面をかければ、ほとんど周囲は見えないままではないだろうか。にもかかわらず、その動きは一部の隙もなく、十全に見えているかのよう。手を伸ばし、幣を取り、刀を鍛える、その空間に充ち満ちているものが、その身体と共に語っている。一つになる地謡とともに、もう一つの身体の無言の声を聴くように。
 そうだ。能楽堂で能を体験する、それもこのわずかな灯の中で、鍛えられ身体と一つになったその動きに、言葉なく満たされるものと出会える。ここでは義太夫節の語りもまた、そうした身体性の時空の中で、より研ぎ澄まされた声となり音となって、私たちの感性に直接的に届いているようだ。

 幕間、多くの方が舞台に寄り、蠟燭の揺らめく舞台を写真に収めている。しかし舞台に向かうマナーの良さが光った。そういえば、能楽堂は初めてなのに、全く場を壊すようなふるまいはなかった。むしろ、素直に感じて拍手し、笑い、息を詰める。それだけではない。多くの方が想像だにしなかったこの空間に充ち満てるものを体験することができた。それと名状できなくとも、確かにそれは「見た」感覚としてその人を見たし、いずれまた「能」の時空を慕わしく思える時が来るだろうと思わされた。
 能であれ文楽であれ、これまで知らなかった人々にどうやって知ってもらうか、一度も来たことのない劇場にどうやって招くかが喫緊の課題である。それに対する一つの回答としてなされたこの試みを高く評価したい。阿るのではなく、いたずらに親しさを強調するのでなく、品格を持って、能と文楽、そこにしかない経験を提供し、それを味わっていただくこと。美しいものに出会わなければ、美しいという形容詞は使えない。見所において能の持つ身体性と超自然への親和性、義太夫の語りの荘重さとダイナミズム、掛け値なしのその真髄に触れることができたこと、その勇気と、携わられたお一人お一人の誠実と、芸なるものの高みを保ち続ける方々への、新たな感謝と敬意を表しつつ。

カウント数(掲載、カウント2019/06/06より)