その志明らかなれば―2019年初春公演―

森田美芽

 外では寒波にインフルエンザと暗いニュースが続いても、劇場の中には輝く命の熱がある。そう思って劇場へと足を運ぶ。変わらない正月の風情、華やかな舞台、その中に、許された命の誇らしげな力と、ややもどかしげに迫るもう一つの声を聴く。
初春文楽公演-B2ポスター

第一部の幕開きは『二人禿』。野澤松之輔の作で昭和16年の初演というから、それほど古い曲ではない。島原の春景色と言っても、それ自体すでに過ぎ去りし日々である。
 睦太夫、南都太夫、咲寿太夫、碩太夫は美声の太夫揃いで楽しめるが、言葉の中から伝わってくる色気がまだあるように思えた。三味線の勝平、清丈、錦吾、燕二郎。勝平のリードで廓の風情、羽根音、おこぼの足音まで聞こえるような華やぎ。10分ばかりの贅沢な時間。
 人形は一輔、紋臣。紋臣のははずむような動きで活動的、一輔のはおとなしやかで柔らかい動きときっちり性根の違いを見せた。

『伽羅先代萩』の「竹の間」はこれまで掛け合いが主だったが、今回は織太夫、團七で。
 確かに織太夫は語り分けがよいが、中でも最もつきづきしいと感じたのは、実は沖の井だった。特に後半、八汐をやりこめる、理路整然とした捌き方は胸がすっとする爽快さ。それに比べると、八汐の憎々しさはまだ軽く、滑稽さも感じられる。團七のリードは確実で、この場の逆転劇の楽しさを聞かせてくれる。
 「御殿」は千歳太夫、富助。
 千歳太夫は、こうした段をじっくりと聞かせる。
 たとえば「心一つの憂き思ひ」で政岡の苦衷を表わし、千松の健気さが胸に染みる。「千松に飲ます茶碗も楽ならで」がやや強く感じたが、大名の子がわずかな食事を待ち焦がれるという哀れさが伝わってきた。富助もしっとり聞かせる、大人の三味線。

 「政岡忠義」は咲太夫、燕三のところ、咲太夫の休演で織太夫が代役。本来なら、咲太夫が格上だから当然「御殿」と思っていた。織太夫にとっては大きな課題だが、よく応えたと思う。
 栄御前の短絡、忠義を第一とする前半から、母としての感情を爆発させる後半、「三千世界に子を持った親の心は」がいたく迫る。
 転じての大団円も見事に語り納めた。導く燕三の頼もしさ、一分の揺らぎもない。

 人形では、和生の政岡が乳母の母性とお家を思う忠節と気概を示す好演。
 「竹の間」で鶴喜代が沖の井の膳を食べようとするのを制する眼差しの力。勘壽の八汐は悪の貫目よりも出自の卑しさをどこか匂わせる敵役。
 文昇の沖の井は捌き役の冷静さが印象的。簑紫郎の小巻は老女方のかしらだが気合の鋭さを感じさせる。簑太郎の鶴喜代君はおっとりと大名の子らしく格ある遣い方。
 これに対し玉翔の千松は、臣下の子としての慎しみ深さや忠節を幼いながらにわきまえている、その健気さがいじらしい。簑助の栄御前、権高さと自分を頼む愚かさをじっくり見せる余裕。簑悠(前半は玉延)の忍びは及第点。

『壷坂観音霊験記』「土佐町松原」は亘太夫、清允。御簾内だが、はっきりと聞かせ、響かせる。気持ちの良い序段。
 「沢市内より山の段」前は靖太夫、錦糸のはずがこの日は芳穂太夫が代役を勤めた。「糸より細き身代の、薄き煙の営みに」とある貧しさよりも、思いのほか沢市の色気というか、若々しさが目立った。
 お里のクドキもなかなか聞かせるとともに、この男の苛立ちが、やりきれなさが伝わってくる語り。 錦糸の糸は生活感を帯びてなお美しい。

 は呂勢太夫、清治。ツレ清公。
 沢市が死んだと知ったときの嘆きの激しさ。そこに至るまでの、沢市のおどけたような、諦めたような表情との対比が素晴らしい。
 ただ、嘆きの深さを表わすには、沢市の屈折があと一歩というところか。段切れはめでたく、明るく終える。清治の余裕、それでいて鋭い、この人の表現の幅を改めて知る。
 人形では、玉也の沢市の屈折と色気を評価したい。簑二郎(勘弥)のお里の生き生きとした強さがまぶしい。勘次郎が茶店の嬶、玉峻が観世音。場を心得た遣い方。

第二部は『冥途の飛脚』と「壇浦兜軍記」
 『冥途の飛脚』「淡路町の段」口希太夫、團吾。團吾の音色はこの町の色、雰囲気、夕方の店先の空気の色を感じさせる。
 希太夫は丁寧な詞で物語の導入を作り出す。手代や妙閑の詞が印象的。この実直さと、忠兵衛との対比。
 奥文字久太夫、藤蔵。
 忠兵衛の色気と物狂おしさ。飯炊きのまんの滑稽味。八右衛門にすがるあわれさ、そして腹に一物の八右衛門。忠兵衛の危うさが十分にわかる出来。
 そして「措いてくりょ…行て退きょ」がやや芝居がかって聞こえる。藤蔵とはよいバランスで物語を進めていく。

 「封印切」呂太夫、宗助。
 宗助、一転して明るく華やぐ舞台。色町の風情をはんなりと聞かせる。呂太夫は「恋と哀れは種一つ、梅芳しく松高き」と、近松独特の、言葉の重なりの内に織りなされる人と状況描写。
 突き放すのではなく、入れ込むのでなく、冷静にその距離を保ちつつ、神の視点での描き方。そしていつの間にか、見る者が、追い詰める八右衛門、追い詰められる忠兵衛、嘆く梅川の心に同調していくような語り。
 呂太夫は八右衛門を、善と見せかけて追い詰め、逃げ場をなくす手の込んだ悪役として描く。忠兵衛は最初「短気は損気」と自覚しながらも、ついに三百両に手を付けてしまう。それを愚かさと言いきることはできない。

 私たちも、もし同じ立場ならどうあろうかと思わせる。梅川の嘆きもそれをとどめることができないほどに。この緊張感を見事に描いた。
 その通り玉男の忠兵衛は、自らの内面の穴に落ち込んだようなこの男の悲劇を納得させる遣い方。清十郎の梅川は、自らが原因と思ってその嘆きを深くする純情が哀れを誘う。玉輝の八右衛門は、この複雑な敵役の底意地悪さを描いた。
 玉誉の禿もよい出来だが、あとの狂言に三味線がついてしまうので損。簑一郎の花車、抑えた色気と人の好さ。

 「道行相合かご」
 三輪太夫、芳穂太夫、文字栄太夫、亘太夫。清友、清馗、友之助、清公、清允。
 この悲劇の後としては、あまりに中途半端な終わり方かもしれないが、三輪太夫初め、冬の大和の木枯らし、寒々しさ、二人の行く手のはかなさを感じさせた。しかしこの狂言で手代伊兵衛を玉助、玉志クラス、駕籠屋に玉勢、文哉とは、もったいないというか、贅沢というか。

 「阿古屋琴責」の段
 阿古屋を津駒太夫、重忠を織太夫、岩永を津国太夫、榛沢を小住太夫、水奴を碩太夫、
三味線は清介、ツレ清志郎、三曲寛太郎。

 ある意味、この段の影の主役は、三曲の寛太郎であったかもしれない。それほど見事な出来だった。琴も、胡弓も、その旋律の美しさと技量にため息をついた。
 それだけではない。勘十郎の遣う阿古屋が舞台に登場した時、ぱっと光が差し込んだように思えた。品格と貫目、そして心根の優しさ。その女が舞台で、ただ一人の男のために、責めを受け、三曲を弾く。
 あたかも人形が音を出しているかのように錯覚させる、

 その手の業と心と音色が一体化して、この上ないと思わせる舞台となった。
 左は一輔、足は勘次郎。津駒太夫はニンに合った役どころで、阿古屋を情深く聞かせる。織太夫の重忠は折り目正しく心ある智将。ただし裁きの重みがいま一歩に感じた。玉志の風格と重み。岩永は文司。滑稽味を出すが、本来の敵役の性根を失わない。
 それでいて、最後に胡弓を奏でるふりをするあたり、愛嬌あるところを見せる。津国太夫がいい味わいを出す。小住太夫の榛沢はさわやかで、玉佳はすっきりと色気ある立ち姿。
 水奴、碩太夫がまっすぐに声を出す。勘助、玉路、和馬、簑之らの心地よい遣いぶり。

 「その志明らかなれば、冬の夜をわれは嘆かず」とは中原中也「寒い夜の自我像」の一節。
 多くの責任を負い、舞台を務める人々、またそれを支える人々の労苦を思うにつけ、この複雑な世に、実に心を満たす灯を与えてくれていることに感謝せざるを得ない。

 しかし次回、4月の舞台は仮名手本忠臣蔵、それも3公演に分けての上演と聞き、あまりのことと、驚きよりも嘆息せざるをえない。
 私の短い観劇経験でも、忠臣蔵を本公演で上演するのに、通し以外というのはなかった。そして忠臣蔵のキャスティングは、その時々の文楽座の総力を挙げたものであり、各段の性根に合わせた配役で、芸の序列を明確にすると同時に、どの役にもしどころがあり、担当する者すべてがその役を演じることで、一段飛躍できる、そのような機会に他ならなかった。そして5年ごとに上演されることで、その前回の公演と比べての個々の技芸員の進展も手に取るようにわかった。

 私が最も危惧するのは、そうした「忠臣蔵」上演の意味そのものが変わってしまうことである。

 全段上演といっても、十段目、十一段目はあまりその意義を感じない。
 むしろ、それでなくともきちんとした形で通し狂言を行うという国立劇場の使命がないがしろにされているのに、こうした前例を作ることは、ますます文楽の本質を損なうことではないか。
 国立劇場はその責任を感じ、その志を曲げることなく、その使命を全うしていただきたいと切に願う。

==WEB管理人の不手際で掲載が遅れましたこと、美芽さんと読者の皆様にお詫びします==

カウント数(掲載、カウント19/02/10より)