いのち輝く時―2017年夏公演―

森田美芽

夏休み親子劇場
『金太郎の大ぐも退治』
 芳穂太夫、靖太夫、亘太夫、碩太夫、清志郎、清丈、友之助、燕二郎、清允。
 金太郎は玉佳、大ぐも実は鬼童丸を玉勢、源頼光が簑紫郎。
 幕開き、すでにおどろおどろしさを感じさせる。山奥に人身御供というシチュエーションのもつ恐怖感、自然への畏怖とそれでも共生しなければならない人間の小ささ、それに比べての自然の奥深さ、怪しさ。実際、私たちの先祖が感じたであろう、闇の恐怖、自然への畏怖、それらを感じさせる大道具と、その雰囲気を作り出した清志郎の三味線。芳穂太夫らのユニゾンが美しく揃って聞きやすい。
 蜘蛛の住む祠の怪しさ、実際に蜘蛛が現れるのはグロテスクで、戦いの場面は蜘蛛の足を担当する人形遣いのチームワークが目立った。また、鬼童丸との再会を期しての宙乗りは、こうした設定に不慣れな子どもたちに親切とはいえないかもしれないが、生の舞台の迫力は子どもたちにも十分伝わったはずだ。

『赤い陣羽織』
 3部構成で、一部文字久太夫、藤蔵、2部呂太夫、清介、三部が掛け合いで三輪太夫、始太夫、芳穂太夫、咲寿太夫、小住太夫、喜一朗と燕二郎。
文字久太夫の口調には何とも言えない温かみがある。固有の名のないこの庶民の暮らし、そこに通うほのぼのとした情愛と、代官によってもたらされる危機の暗示。
 呂太夫と清介。心に染み入る。この夫婦が、どんな思いを抱えて生きてきたか、この世の世知辛さに対しても自分を見失わず、その結果が「ほんに世間には目の利くおなごが無いもんだなあ」という術懐につながる。
 こうした重ねてきた人生の味わいを感じさせ、しかもそれが重くなく、子どもの耳にも届く人の心のやさしさを伝える、これこそ呂太夫の十八番であろう。また孫太郎に向ける、我が子のような慈しみと親しさも微笑ましい。そして緊迫、危機を乗り越えようとする女房の強さ、お代官とこぶんのやりとりには凡俗さ、おやじの決意の心理をたどる、そうした丁寧な物語作りが、説得力を持って迫ってくる。清介の音の多様さと味わいが花を添える。

 三部は掛け合いだが、性根をよく聞かせる。始太夫はおやじの実直、三輪太夫は代官の小人物さ、芳穂太夫は奥方のきっぱりした威厳、咲寿太夫は女房の不安と愛らしさ、小住太夫はこぶんのおかしみを、それぞれよく表し、喜一朗がうまくまとめた。
 実際、子供向けの内容とはいいがたいが、代官の軽薄さと奥方の威厳、夫婦の危機を乗り越える物語として、子どもたちにも心に伝わるものがあったようだ。
 文司のおやじのひょうきんさと自意識は秀逸。勘彌の女房はもと茶屋勤めの華やかさよりも、気風の良さと行動力が魅力的。簑二郎の御代官は好色な凡人ぶりをいやらしくなく描き、清十郎の奥方はひときわ女の強さを見せつける。

『源平布引滝』
 文楽では珍しい「義賢館」中を靖太夫・錦糸、奥を咲甫太夫、清友。
靖太夫は前に比べ、一人ひとりの性根が明確になり、語り分けが自然に聞こえた。折平と待宵姫など若々しくかつ瑞々しい色気を感じた。九郎助もそれらしい。
 咲甫太夫は義賢の壮絶な最期までの物語を描くスケールの大きさが伴ってきた。あとは重厚さが加わればと思う。
 矢橋の段 亘太夫、錦吾。小まんの活躍、詞は力強くなってきた。ここでの小まんの活躍と重なる。錦吾も素直で丁寧な三味線。
 竹生島遊覧の段 津国太夫、南都太夫、文字栄太夫、碩太夫、希太夫、清馗。
 津国太夫の実盛が、肚のある人物像に近い。南都太夫の小まんは、助けられた感謝と、一転して奈落への変化を聞かせ、「今日は何たる悪日ぞ」が染みる。初舞台の碩太夫はしっかりと声を出した。

「九郎助住家」
 中、希太夫、寛太郎。仁惣太と九郎助女房の詞が正確だがまだ単調。次、文字久太夫 團七。実盛と瀬尾の性根を聞かせる。切、咲太夫 燕三。さすがと思わせるところと、内から迫るものが、何か一つ二つ途切れたような印象相半ばして残る「物語」。後、呂勢太夫、清治。 畳みかけるような段切れに響くものを確かに伝える三味線。
 人形では、玉男の実盛。安定の立ち役。本来は二心のはずが、実に情を知る知将と見せる。
 玉也の瀬尾、憎まれ役とそのモドリの切なさ。孫のためという弱さが心を打つ。文司の九郎助、枯れた味わいではなく、情と理を知る武氏。清十郎の小まん、男まさりの女丈夫、母としても芯の通った強さと意地、立ち回りの鋭さ。長らく紋寿の持ち役であったが、清十郎も新境地を開いた。また簑一郎の女房の温かみとしたたかさ、玉翔の仁惣太のふてぶてしさ、文昇の葵御前の品位なども心に残る。新人間国宝に認定された和生は、義賢を品位高く遣う。
 しかし、大阪では3年前の1月に、国立小劇場では2年前に上演されたばかりの作品をこうも頻繁に上演する必要があるのかと思う。

『夏祭浪花鑑』
 これも昨年6月の鑑賞教室で出たばかり。夜の部の入りが思わしくなかったと聞くが、土日はかなりの入りになっていた。理屈抜きに楽しめる作品。しかし、「内本町道具屋」の段がないと、磯之丞の女癖の悪さと、それゆえにこそ三婦が、お辰に磯之丞を預けられないという理由が納得できるというもの。
 「住吉鳥居前」の段、口。咲寿太夫、団吾。咲寿太夫は若い。声が高くよく通る。だから、この場に求められるねっとりした大阪の夏の下町の風情や三婦、団七女房らの情を語るにはスマートすぎる。しかし形としてはようやく浄瑠璃として安定してきた。その姿勢はしっかりしている。団吾は安定した響き。
 奥、睦太夫、宗助。睦太夫はこのところ、声の使い方に疑問が残る。また住吉あたりの下町の風情や男伊達の意気地ともいえるものはやはり彼の表現からは響いてきにくい。無論、丁寧に語り声も十分だが。
 「釣舩三婦内」口 小住太夫、清公。声が詰まって聞きづらくなってきている。まして詞に痴話喧嘩の風をにじませるのは難しい。小住太夫はこのところ進境著しいが、努力だけでどうにもならない部分が残るのが、義太夫節の難しいところ。奥、千歳太夫、富助。千歳太夫は最初、時代物かと思うような武張った語り。しかし詞になると、いきいきと三婦、おつぎ、お辰らを語りそれぞれに納得させる力。しかしこっぱの権、なまの八などの小物のいきがりや、お辰の鉄弓の裏の心情など、自然に納得させるというより、どうもそこに作ったような感情というか、どこかに本心が別にあるのではないか、と思える時がある。
 「長町裏」咲甫太夫、津駒太夫、寛治。咲甫太夫の団七は、勢いがあり若々しいが、詞が早過ぎて津駒太夫のねっちりとした義平次にもう一つ合わない感じ。また駕籠を返してからの義平次との心理的な葛藤が、もう一つ舅殺しに到る必然性まで聞こえてこない。世話物での詞の難しさは、時代物以上に、300年以上前の人間のなまの感情や感覚を伝えることで、それが詞の命である。一層の精進を期待したい。津駒太夫は新境地を開いた感がある。
 人形では、なんといっても勘十郎の団七。人形の手足を精いっぱい伸ばし、舞台にスケール感と動きのダイナミックさを与え、魅了する。何よりも団七という男の感情が生きている。一寸徳兵衛は幸助。五分に渡り合うスケールと男伊達を、爽やかに遣う。
 団七女房お梶に一輔。どうも可憐で純情な感じが先立って、こうした荒々しい男たちを裁く気概に乏しい。玉輝の三婦はいまの「仏性」が合う人物。勘寿のお継は姐さん気質の残る女房。清五郎の磯之丞は清潔だが女にもてる陰の部分がほしい。紋臣の琴浦も可憐な娘になってしまうところがある。簑助のお辰、極めつけ。玉也の義平次の憎々しさ、悪の強さ、それを義理の息子に向けた時の残酷さがさすがと思わせる。

 同じ演目を何度も上演すること自体が悪いとは言わないが、その上演の理由がわからない。少なくとも芸の伝承の上で、今上演しておくべき演目が多くあるはず。また配役も固定しており、安定感はあるが、新味に乏しくなる。特に若手の太夫は、一人で語る者と掛け合いの者との間に、それほど大きな力の差があるとは思えない。しかし役が与えられなければ伸びることはできない。その矛盾をいつも感じつつ見ている。
 文楽はもっと、いま、こうであるということと、まだ見えないがこうあるべきものとの力の拮抗のうちに新しい芸が開かれる。いまの演目や配役には、それを意図的に作り出していこうとする姿勢があまり見えない。芸はその人の命のうちにしかない。今回の公演にも、新たな魅力を輝かせた者がいる。その命を生かすべく、国立文楽劇場は大きな使命を持っている。何度も何度も期待する。

カウント数(掲載、カウント17/08/08より)